勝谷さんを悼む

そもそも私が勝谷さんの日記の読者になったのは、東良美季さんのファンだったからだ。講談社文庫版の『猫の神様』が2012年に出た時、電子書籍で読んだのだが、東良さんがそこに書かれた後書きで、初めて勝谷さんの名を知った。数ヶ月後日本に行って、本屋で『猫の神様』の実物を手に取ってみたら、電子書籍版にはなかった、勝谷さんの解説が最後に付いていることに気づいた。立ち読みして、この本はこの解説だけのためにでも二重買いする値打ちがある、と思って買った。

そのすぐ後、東良さんが迂闊屋通信の担当になられて、東良さんの文章を読むために日記の購読を始めたのだが、だんだん勝谷さんの日記の方も面白くなってきた。政治的信条などでは意見の違うことも多いのだが、『猫の神様』の解説を読んで感じた、この人は基本的に人間としてノーブルで繊細なひとだ、という印象を繰り返して受けることも多かった。

そうして何年かが経ち、勝谷さんの日記を毎日読むことが習慣になり、お会いしたこともないのに勝谷さんのことを親戚か友人のように考えるようになった。最近の日記では、頻繁に、死を待ち望むような言い回しが見られるようになり、お気持ちは分かるような気はするものの、「友人」として何もしてあげられないことが残念であった。

いま、『猫の神様』の解説を読み返して見て、初めから終わりまで「死」のことばかり書かれているのに気がついた。あの頃から、勝谷さんにとって、「死」はこんなに身近なものだったのか。

最近は、ヨロンさんや周りの人々が「死」の方にどんどんずり落ちていく勝谷さんを必死で引き止めようとしているのに、帰ってくる場所を残そうとして、懸命の努力で日記を続けておられるのに、勝谷さんの方は、もういいや、という感じで、どんどん彼岸の方に歩いていかれるようだった。

五年間、有難うございました。日記を読むのは本当に楽しかったです。さようなら。

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