dittoで ②

嘔吐の波を何度もやり過ごしながら、背中をさすってくれる岩佐くんのたくましい右手が温かく感じられた。

 

便器に顔を下げる私のセミロングの髪は、汚れないよう岩佐くんの大きな左手でまとめられている。

 

心配したマスターがおしぼりとミネラルウォーターを持って来てくれた。

 

『あ、すいませんありがとうございます』

 

岩佐くんはマスターにお礼を言い受け取っている。

 

 

今、岩佐くんに無様な姿を晒している自分が不思議だった。
介抱されているこのひと時が、とても楽で、安心感がある。

 

お手洗いの個室は狭く、岩佐くんは長い手足をできるだけ縮めて私に付き合ってくれていた。

 

 

 

私は幾度か吐いた後、涙顔で言う。

 

『ありがと…
だいぶすっきりした』

 

岩佐くんは今まで見せたことのない優しい表情で、顔を拭いてくれた。

 

『マスターが水くれたよ。
飲むか?』

 

『うん』

 

『少しだけにしとけよ、また吐くから』

 

『うん』

 

私はペットボトルのミネラルウォーターをひと口だけ含み慎重に飲み込むと、岩佐くんは子どもを見るような眼差しで私を見つめていた。

 

私は支えられて起こされ、ようやくお手洗いから出られたのだった。

 

 

 

 

 

少し落ち着いた私は、カウンターでぽつりぽつりと話す。

 

『この前の外来でね。
あるおばあちゃんがね、“お医者さんはお休みが多いねえ”ってにこにこしてるの。
外来がない日は家にいると思ってたみたい。

でも私たち、病棟の日とか読影とか、朝からオペとかあるじゃない?
当直だってまだまだ多いし。

そう考えるとね、病院で過ごしてる時間って長いなあーって』

 

『長いよなあ。
家より病院のほうが落ち着く時あるもんな。
病院に置く私物がどんどん増えてくわ俺』

 

『長い時間過ごして、常に彼とも関わって。
それで尊敬して、好きになって。
だから、こんな日が来るなんて思ってなかった』

 

 

 

虚ろな様子の私に、岩佐くんが聞いた。

 

『体の相性はどうだった?』

 

『うん。すごくよかった』

 

『…そっか』

 

岩佐くんは、自分のグラスを片手で持ち上げると、一気に飲み干した。

 

 

 

 

 

 

 

会計を済ませて店を出ると、叩きつけるような土砂降りの雨だった。

 

岩佐くんは雨音にかき消されないよう声を張り上げ、

 

『お前、マンション近いんだろ?
すごい雨だから、タクシーとめるぞ。
送ってくから』

 

と言うと、通りまで走り出て手を上げタクシーをとめた。

 

 

足元がおぼつかない私を抱え、岩佐くんは後部座席に私を座らせ、自分も乗り込む。

 

『どちらまでですか』

 

ドライバーが尋ねる。

 

どうしたんだろう、私。
まだ帰りたくない。
もう一件行こうと誘われたら、行ってもいい。
とにかく今夜はひとりで居たくない。

 

 

 

私が行き先を告げずにいると、

 

『お客さん?』

 

と再び聞かれ、岩佐くんも

 

『仙石、』

 

と私を促す。

 

 

 

私は黙ったままでいた。
息をするのも放棄したいくらいに、けだるい。

 

今だけは、自分で決めたくない。
何も考えたくない。
誰か、私のすべき事を決めて。
私のゆくべき所を決めて。

 

 

 

 

 

岩佐くんは私の横顔をしばらく見つめていたが、やがて

 

『葉山通りまで』

 

とホテル街を告げた。

 

タクシーは走り出したが、私はなぜか岩佐くんを咎めなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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