ドイツ料理『essen』①

退職を1週間後に控えたある日の夜、私の送別会が開かれた。

 

同じ科のスタッフが全員参加というのは不可能だが、そこには孝くん、岩佐くん、中山師長、そして最初に退職を打ち明けた上司の澤口先生など、特に懇意だったメンバーが15名ほど集まってくれていた。

 

父の病院を手伝う決断に後悔はないが、やはり孝くんの言った、“その年でメス置いて、この先なにやるんだ”という言葉だけは頭から離れなかった。

 

 

 

 

 

会の中盤、私はお手洗いに立った。

 

用を済ませ手を洗い、席に戻ろうとすると、廊下で偶然を装った孝くんに会ってしまった。

 

嫌だな、と足早に通り過ぎようとすると、彼は

 

『この後、店を変えて少し二人で飲まないか?
帰りはちゃんと送っていくから。
いいだろ?』

 

と言った。

 

 

『明日が早いので、すみません』

 

『早いったって知れてるだろう。
長く引き止めないようにするから』

 

孝くんは私の腕を掴み、返事を待っている。

 

 

 

 

『先生。無理です、私』

 

『無理?なにが無理なの。
上司と最後に酒飲むくらい、なにも特別なことじゃないと思うけどねえ』

 

と、雲行きが怪しくなってくる。

 

 

 

黙っている私に、孝くんは

 

『まだあのことにこだわってるのか』

 

と、林さんたちのことを生々しく持ち出す。

 

 

『梨江子には理解できないだろうけど、男は結婚を匂わせる女には興ざめするんだよ。
最初から向こうも計算があったはずなんだから、お互い様だ』

 

 

私は今聞いたその言葉に、ハッとした。

 

ナースを弄ぶことで有名だったあるドクターが、全く同じことを言い、鼻で笑っていた出来事を思い出したからだ。

 

 

“ナースは育ちが卑しいのが多いんだよね。
こっちが少し相手してやるだけで、向こうは大喜びだから。
ま、ほんとにナースと結婚したらバカにされるし、絶対に出世はできんわな”

 

と、そのドクターは付け加えていたが。

 

 

 

『…最低…』

 

私は孝くんに聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。

 

 

昔、孝くんを好きだと自覚した時。
彼が、若い頃に行かされた系列の病院や、大学に戻ってから教授と名を連ねて書いた、数々の論文を私は読んだ。

 

当時の教授はすでに他界しているが、孝くんはおそらくたくさんの理不尽に耐え、教授に嫌われないように立ち回り、第一線で研究に邁進してきたのだろう。

 

 

孝くん。
私はあなたの、医師としての人生をも尊敬したのです。
あなたの白衣も、緑色のスクラブも愛おしくて、あなたの指先が繰り広げる魔法のような縫合や、カルテを書く乱筆でさえも愛したのです。

 

あなたのよく通る大きな声も、笑った時に目がなくなる垂れ目も、指の爪も、耳の形も愛していたのです。

 

 

私は我に返ると孝くんを振り切って座席に戻り、彼もまた遅れて席に着いた。

 

 

ちらりと孝くんを見ると、だいぶ飲んでいるようだ。

これ以上飲まないほうがいいのにな…と、私は心の中ではらはらしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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