「誉の家の子」、「赤の家の子」、「普通の家の子」 同じ会場で話ができている時代が続きますように…

横湯園子先生の講演会で初めて聞いた『誉の家の子』という言葉。。。

横湯園子先生は不登校児の教師として赴任した際、教壇に立った途端、児童たちが「わぁ〜」と逃げてしまったというお話をしてくださいました。

不登校児にとって教師の存在自体がイヤなものであることを知り、不登校になっていった経緯などを理解してから子どもたちと向き合うようにしていき、散歩をすることから初めたそうです。

学校近くを流れていた江戸川に散歩したとき、児童から川に落とされそうになり、一緒に飛び込んでからというもの徐々に打ち解けていったそうです。

1965年、国立国際医療研究センター国府台病院の元将校病棟を児童精神科病棟児の校舎とし、1968年から3年間、文部省の実験学校として研究された。
横湯園子先生は、「病気でも怠けでもないのに、学校に行けない子どもの学級ができた」の噂にひかれて見学。翌年、希望して治療的教育の場の教師となった。

1970年頃から、「学校恐怖症」の呼称が「登校拒否」に変わっていった。

「登校拒否」になる児童はなんらかの理由で学校に行くのが恐怖となってしまうので「学校恐怖症」というのも分かるような気がします。
その理由として、いじめ、暴力が一番に頭に浮かびます。
「登校拒否」となり、家から出られなくなり”ひきこもり”になっていく。
1970年代後半から不登校が急増したということで、40歳〜50歳台のひきこもりの人が多いというのもうなづけます。

中には自殺をした児童もいて、横湯先生はその生徒が忘れられないと話していました。
いじめを苦にして自らの命を絶つ子どもが、まだまだ沢山います。
大人同士間でもいじめがあるなんて。。。この世はどうなっていくのでしょう。

いつまでたっても、どの時代でも、この世にはプレッシャーとストレスが蔓延している。

戦争時下でのプレッシャーとストレスは絶対に経験したくないですが、いかばかりのものだったのか。

『アンダー・プレッシャー』・・・クイーンとデヴィッド・ボウイの曲が頭の中で流れています。

恐ろしいほどの恐怖や眠れないほどの疲労。
こういう状態が続くと、誰だって精神をきたしてしまうでしょう。

横湯先生のお父さまは思想家により拷問を受けたそうです。
その妻というだけで、お母さまも拷問を受けましたが、どのようなことをされたという話は一切口にすることはありませんでした。
具合が悪くなり入院した際、点滴の針が上手く刺さらず、看護師が何度も腕に刺したとき、拷問を受けたときの光景がフラッシュバックして暴れだしたのだそうです。
その暴れようが激しく、まだ生きていられたであろう命を2日間で使い切ってしまいました。。。
どれだけ拷問が残酷だったかを物語っていました。

人間同士がそこまで残酷に傷つけ合うなんて、地獄絵図そのものです。

横湯先生は思想家の娘、いわゆる「赤の家の子」として見られ、男の子に取り囲まれるなどのいじめを受けたそうです。家も貸してくれなかったりと。

”9条地球憲章の会”の東京大学名誉教授の堀尾輝久先生のお父さまは獣医として戦地に行き病気で亡くなったそうで、軍国少年だった堀尾先生としては、兵士として戦地で戦って戦死して欲しかったという思いがずっとあったのだそうです。
戦地で病死したとはいえ、玄関に表札と並べて「誉の家」と記した札を掲げられ、戦時中、「誉の家」は、周囲から尊敬を集められていたとのこと。

そんなことを戦時中にしていたことさえ知らなかったので、「誉の家」という言葉も初めて聞きました。

”9条地球憲章の会”のまとめ役の方は、私は「普通の家の子」ですと言って、会場の笑いをとっていましたけど。。。

最後に横湯先生が、「赤の家の子」と「誉の家の子」が戦後70何年かして、同じ会場で一緒に話をしているということが有り難いと。。。
ジーーンと胸が熱くなりました?

「誉の家の子」、「赤の家の子」、「普通の家の子」、別け隔てなく、いじめ・暴力がない世の中になっていって欲しいと願うばかりです。

戦争は絶対に嫌だ、絶対におこしてはならない。

堀尾先生は1933年生まれの86歳。
横湯先生は1939年生まれの80歳。
とても、おふたりとも80歳台には見えない若々しさ。

戦争を知らない子どもたちのために、これからもいろんな場所でお話をしていってほしいと思います。
貴重なお話を聞くことができまして感謝いたします?

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