うっかりと、失くしてしまったと思ったら…という話。(後編)

いつもは財布の中に入っている筈の、クレジットカードが一枚無くなっていることに気づいた僕は、公衆電話に駆け込んだ。クレジットカード会社へ連絡を入れる前に、まずは2日前、最後にそのカードを使った記憶のある、ガソリンスタンドへ電話する…。(前編は、こちら


10円玉は3枚ある。ひとつを電話機に入れた。受話器の音量を大きめに調節すると、僕はやや長い電話番号を手早くプッシュする。市外通話である。

2度のコールの後、ややぶっきら棒な中年男性の低い声が聞こえて来る。店名を言っているのだ。僕は、その声に気圧されながら、やや要領わるく、2日前に給油した際、クレジットカードを機械の中に忘れたようなのですが、ということを伝えた。
続けて、そのような忘れ物の届けが出ていないでしょうか、という旨を質問した。すると、その男性は、やはり低い声のままで、いやあ出ていませんね、と一言だけ言って、あとは沈黙した。

ここでは、これ以上訊くことは何もない、という気がしたのである。では分かりました、どうも…と僕が言い終わるかどうかの内に、ちょうど通話が切れた。10円は、如何にも短い。あとは、クレジットカード会社に連絡するしかないのだ。
iPad miniを点けて、スクリーンショットを開く。見慣れない番号で始まっている。これは、フリーダイヤルの一種なのだろうか。今度は10円玉を気にしないで済みそうである。

電話番号を押し終わるや否や、上気したような若い女性の声が、飛び込んで来た。取って返すように、こちらもやや高揚した調子で、クレジットカードを紛失したのですが、と話した。
それから、住所氏名、誕生日など、訊かれるままに答えた。今度は、頭の中を整理して喋ることが出来そうだ。徐々にリラックスして来ているのか。でも、気を抜くのはまだ早い。それを察したかのように、落ち着いたトーンに変化した声が受話器から漏れる。

お客様のカードの履歴は、x月x日の午前xx時xx分頃、xx市でxxxx円のご利用が最後になっております。では、このカードを利用停止にいたします。

その日付と時刻、場所や金額は、僕がガソリンスタンドを利用したときの内容とピタリ符合する。安堵感が、雲を追い払う風のように、僕の中を通り抜けた。ふう、どうやら、誰にも使われていない。…ということは?待てよ…。
次の疑念が、目の前をどす黒くやって来る。電話の向こうでは、次の話が進みつつあった。でも僕は、聞いていなかったのである。問い返すと、クレジットカードの再発行手続きの説明だった。

言われるがまま返答すると、口頭で再発行の申し込みは、呆気なく済んだ。数日後には届くのだそうである。カードを紛失したくらいでは、顧客をそう簡単に手放さないぞ、というクレジットカード会社の意思がここにはあるのだろう。受話器を置きながら、僕はそう解釈したのである。
それは良い。こちらにとっても便利なことだ。実に有難い。…それはそうと、僕のクレジットカードは、何処へ?僕は、今まで掘り起こしていなかったもの、つまり、給油後の記憶を丹念に辿り始めた。

これまで僕は、クレジットカードをガソリンスタンドの機械へ挿しっぱなしのまま忘れて帰って来てしまった、と考えていた。さっきコンビニで財布の中の空白を見た瞬間から、その映像が僕を支配していたのである。
しかし待てよ、とカード会社への連絡が済み、一旦冷却された頭で改めて考えてみた。給油機は、クレジットカードを抜くまで音が鳴り続けるものである。カードをお取りください、と言う音声合成と共に。

従って、僕はクレジットカードを確かに抜いたのではないか…?さて、再びそれを手にして、何処へやったのだろうか?僕には、そんなとき、いつもの行動パターンがあることを思い出した。
その日に着ていたのは、黒のフリースの上着だ。毎朝、それを着て行っている。ははん、分かった…。黒のフリースの上着には、ポケットが付いている。何故、ここにすぐ気が付かなかったのか。

きっと、ポケットにクレジットカードを、無意識のうちに入れたのだ。そうに決まっている。僕は、手に持っているものを、実に無意識の内にポケットに入れることがある。鍵やボールペンやハンカチや…それらが日々ルーチンワーク化しているのである。
そんな、ガソリンスタンドに忘れて行った訳でもないような、誰かに持ち去られて使われた訳でもないような、かと言って、いま手元にはないような、そのクレジットカードは、黒のフリースのポケットの中で忘れられ、2日間の眠りについているのだろう…。

しかし、こんなことに気付いても、もう遅い。新たにクレジットカードは再発行され、古い方は失効したのだ。クレジットカード会社には、結局のところ申し訳ないことをした。余計なコストをかけさせてしまったからだ。
自宅に電話して、フリースのポケットを確認して貰おうにも、今は皆が、それぞれ外出中だ。僕が帰宅後に、自分で確認するしかないのだろう。そう思うと、急に何だか清々として来たのである。

電話ボックスを離れ、駐車しておいた車に乗り込む。高校へと向かい、息子にお握りを届けてやらなければ…。きっと、お腹を空かせているに違いない。僕は、建物の隙間から陽が射し込み始めた団地の中を、慎重に車を切り返して、ゆっくりと走らせた。

…..
後日談:帰宅し、いの一番にフリースに駆け寄って触ると、はっきりと四角くて固い感触がそこに。ポケットの中には、案の定、黒いクレジットカードが1枚入っていました。嗚呼なんと言うことだ…。早速、クレジットカード会社へ連絡しようと試みるも折悪く、大変混み合っており…の自動メッセージが続くこと数日。その内に、新しいカードが届き、今に至っています…。古い方は、廃棄することになりました。

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