テオドール・クルレンツィス指揮の、モーツァルト『レクイエム』について、もう少し…

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トップの写真は、先達ての週末に撮ったジェット機。ニコン P900のファインダーを覗いて、僕はつい、笑みがこぼれたのである。何だ?このカラフルな機体は…。

あとで写真を見返しながら、リアルタイム航空情報アプリ「フライトレーダー24」で情報を拾った。コリアンエアーのボーイング777。ソウル発、ダラス行きである。下は、そのアプリのスクリーンショット。

撮影している最中は、ANAだっただろうか、ポケモンのキャラクターを描いた機体が以前あった。あれがまた飛んでいるのかと思ったのである。それにしては飛行ルートが違う、はて?と感じた。
上のスクリーンショットをよく見ると、ポケモンではないことが分かる。でも、その代わりにこれが何であるのかは、よく分からない…。でも、まあ少し珍しいものを撮った、と悦に入っているのだw


前回の投稿で取り急ぎ書いた、テオドール・クルレンツィス指揮、ムジカエテルナ演奏の、モーツァルト『レクイエム』について再び。

その投稿の中で、僕の大学時代の友人であるOさんから手紙を貰ったことについても触れた。今年に入って、久方振りに僕はOさんに手紙を書き、その中でテオドール・クルレンツィスのことを紹介したのである。
Oさんは、クルレンツィス指揮の、チャイコフスキー『交響曲第6番 悲愴』を聴き、手紙の中で絶賛してくれた。僕はやはり、と感じると同時に、有難いことであるとも思う。Oさんは、長年のクラシックファンだからである。

その手紙の中で、実に興味深い一節があった。ちょっと引用してみたいと思う。(Oさん、引用をどうぞご了解ください…)

「一つ面白いと思ったのは、第4楽章の終結部の音量が力を保ったまま終わったことです。ここは普通、死に絶えるように終わるはずなのに、クルレンツィスはそうしなかった。消え入るように死に絶えるのではなく、死体が残るようにしたかったとでも言えば、言い過ぎでしょうか。」

実は、僕はこのクルレンツィスの『悲愴』を聴いて、ひとつだけ「あれ?」と感じていたことがある。第4楽章の最後がやや唐突に終わったように聴こえてしまっていたのだ。「もう、ここで終わりだっけ?」といったような。
そうなのである、他の指揮者やオケによる通常の演奏では、この部分がまるでフェードアウトのように(Oさんの文面では「消え入るように」)終わるので、聴感上の自然な心理として、曲が終わったなあという印象を聴く者に与えることになる。

しかし、クルレンツィスは、敢えてそのようにはしなかった。やはり、稀代の音楽的反逆児であるw ここを、フェードアウトではなく、カットアウトのようにしたのだ。例えるならば、蝋燭の火を吹き消すということか。唐突な感触が残るので、「あれ?」となるのだ。
この部分、Oさんは、「死体が残るよう」な感じだと表現している。Oさん、流石です。まさしく、それだ…。クルレンツィスは、チャイコフスキーの謂わば白鳥の歌たる、この交響曲のラストに、何びとかの亡骸をそこに放置したのである。

僕は、前回の投稿で、クルレンツィスのモーツァルト『レクイエム』の中の「ディエス・イレ」が、まるで地の底から死者が蘇ってきてくるかのようだ、と書いた。
これらは、きっと音楽における、ネクロフィリアなのだろう、と思う。きつい表現でごめんなさい。でも、これは賛辞である。クルレンツィスは、音楽を前にして、たとえ死というものに対峙したとしても微動だにしない、むしろそれを引き込んでいくかのような、稀有な音楽家だということなのである。只者ではない…。

さて、クルレンツィスのモーツァルト『レクイエム』、前回リンクを貼った動画は、昨年のコンサート映像である。もしCD化されたら、一体どのような音になるのだろう?と僕はあれこれと夢想した。
きっと、これもスタジオで入念に仕上げた、密度の濃厚な、魂を抉られる演奏になるだろうと考えたのである。『悲愴』という大きな前例があるだけに。すると、な、何と、既にCD化されていることが分かったのだ。


『Mozart: Requiem』(CD, Import)

但し、輸入盤のみのリリースである。日本のレコード会社は、何故これを国内盤で発売しないのだろう。実に不思議な事である。何か、オトナの事情でもあるのかな?
何れにせよ、僕はすぐさまにポチっておいたのだったw 海外からの発送なので、やや日数がかかる。到着がとても楽しみだ。これについては、また改めてレビューしたいと思う。(Oさん、また手紙を書きますね。お楽しみに…)

さて、テオドール・クルレンツィスは、CDのライナーノーツも素晴らしい。楽曲の解説のみならず、思索的な論考を踏まえた、一種のエッセイとしても読むことが出来る。
下は、前回リンクしたモーツァルト『レクイエム』の動画からのスクリーンショットである。そこに、『悲愴』のライナーノーツに書かれている、クルレンツィスの印象的な文章も幾つか併せて載せてみたいと思う。(それらの和訳は、国内盤のブックレットに掲載のものではなく、僕自身が私訳を行なった)

クルレンツィスやムジカエテルナのメンバーは、皆スーツやタキシード等を着用するのではなく、独特の黒く長い服装で演奏に臨む。これが、他のオーケストラにない、異質感を視覚的にも与えることになっている。
また、前回も書いたように、バイオリン奏者たちは立ったまま、自由に体を動かして演奏する。これが、ムジカエテルナの演奏が持つ、力強さの源のひとつになっているように思われてならないのだ。

ムジカエテルナは、ピリオド楽器という古楽器を使って演奏するオーケストラである。動画の中でも、特に管楽器や打楽器で、それらをはっきり目にすることが出来る。
奏法も、ノンビブラート(音をビブラートさせない)や、ディミヌエンド(音を減衰させる)を多用した、ピリオド楽器特有の方法を用いている。これが、クルレンツィスのタクトと相まって、比類のないダイナミズムやテンポ感を生んでいるのだと思う。

‘When language disappears, what remains ? When there is no more philosophy, then what can confirm your existance ? When you are alone, how can you go on living ?’
「言語が消滅したとき、何が残るのか。もう哲学がなければ、そのとき何があなたの存在を認め得るのか。あなたがひとりのとき、あなたはどのようにして生き続けることが出来るのか。」

‘Music is not notes overlaying silence, it is the silence between sounds.’
「音楽とは、静けさを覆っている音符のことではなく、音と音の間にある静けさのことなのである。」

‘I once had a friend. When he fell into a deep depression, he told me : ” I promised myself that I would die in two days. I will live these two days, knowing that I will then die. I will live for the last time. ” ‘…
「私には、嘗てひとりの友人がいた。彼は深い憂鬱の中にあったとき、私に言った。『2日後に死ぬ、と僕は自分自身に約束をした。その時に死ぬのだということを知った上で、この2日を生きるつもりだ。僕は、その最後の時間のために生きるのだ。』…

… ‘And then a magnificent feeling of joy sprang up in him, and he began to perceive all the wonders of life. Life is like a continuous movement of octaves. Life is like one enormous upbeat.’
…「そのとき、歓びに満ちた荘厳な感覚が、彼の中に湧き上がってきた。そして、彼は、生命についてのあらゆる驚きに気付き始めた。生命とは、8度の音程の間断ない動きのようなものだ。生命とは、指揮棒を並外れて大きく、一度だけ振り上げるようなものなのだ。」

上の写真の最後の2枚は、『レクイエム』の演奏終了直後、ゆっくりと手を下ろし、約1分間黙祷をするクルレンツィス。このとき、彼は何を想ったのであろうか…。
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