【芥川賞直木賞予想 #157-3】温又柔「真ん中の子どもたち」を読んでみた

温又柔(おん・ゆうじゅう)「真ん中の子どもたち」(「すばる」2017.4号)、読了。思いのほか時間がかかってしまった。

本作については、産経新聞で石原千秋さんがこう述べている(「文芸時評」4月号より)。

いま「正確に言おう」などと書いたのは、温又柔(おんゆうじゅう)「真ん中の子どもたち」(すばる)を読んだからである。
母親が台湾人で父親が日本人で、幼い頃台湾に住んでいた天原琴子は、日本では母親の強い意志によって日本語で育てられた。しかし、台湾語も話すことはできる。その琴子が中国語を学ぶために上海の「漢語学院」に通ったところから話はややこしくなっていく。
そもそも「漢語学院」では「中国語」は「普通話」と言う。琴子はその「普通話」がうまく話せないのだ。「だってもともと台湾人は中国語なんか喋(しゃべ)ってなかったんだもん」と、琴子の友人は言う。
「台湾人」も「中国人」も「日本人」も「台湾語」も「中国語」も「上海語」もみな自明な概念ではなくなる。
「線が、見えればいいのに。ここまでは、日本人。ここから先は、台湾人」。しかし、「線」はない。このめまいのするような混乱ぶりだけでも十分に読む価値がある。(改行は引用者)

たしかに、その通りだ。
人はなにをもって、その人のアイデンティティと認識するのか。言葉か国籍か人種か。さまざまな歴史の流れと地理的条件と経済の行方は、現代の人たちのアイデンティティを揺さぶるのである。

「でも玲玲の言うとおりだよ。イー、アル、サンだって台湾人のお母さんがいたからミーミーの血となり肉となったんやろ。その厳しいセンセイが何と言おうと、中国語はとっくにミーミー(主人公のこと:引用者註)の一部なんだよ。脈々と受け継いだ、言ってみれば財産やで。まあ財産言うても、ひとに見せびらかすとかそういうためのものじゃなくて、おれが言いたいのはつまり、ミーミー自身がその自分の一部のような中国語を堂々と誇ればいいんだってことなんやけど・・・」

言葉によるアイデンティティの線引きに主人公は悩む。その問題は解るのだが、しかし、この作品においては、その悩み(主題)はうまく機能していないように感じる。

ひとつは、いってみれば〈留学生のラブストーリィ〉において、その主題はどうも絡んでこないで上滑りしている。それが思った以上にこの作品をつまらなくしている。
もうひとつは、これを読んだ日本人がどれだけ共感するか、で、別に共感はしなくてもいいのだが、この作品が日本語で書かれるべき意味合いがいまひとつ、わたしには理解できなかった。日本や日本人や日本語は、この作品では、テーマを構築するなくてはならないものではないからだ。one of themでしかない。
これこそが、前述の石原さんが指摘した〈宛先〉の話につながるのだが、わたしにはそのふたつがどうにも腑に落ちなかった。これが受賞ということになれば、それはそれで〈日本人以外に宛てた芥川賞作品〉として評価するが、それにしては物語の推進力が弱い。

いまのところ、これは受賞しないと思う。

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