真情溢るる新聞コラム

深代惇郎『深代惇郎の天声人語』(朝日文庫)を、ふとパラパラとめくる。

朝日新聞といえば一面の連載コラム「天声人語」。
「天声人語」といえば朝日新聞。地方の一高校生だったぼくが意識しはじめたのは、大学入試を意識したあたりのことだったか、もう忘れた。

「天声人語」の執筆者は代々朝日新聞のエース級の書き手が担当してきた。
深代惇郎が5代目天声人語の書き手として、「天下の朝日新聞」の看板コラムを担ったのは、1973年2月から1975年11月1日までだった。そんなに長い期間ではない。
彼はその1ヶ月半後、急性脊髄性白血病でこの世を去ってしまう。1975年12月17日のことだ。享年46。

この本は彼が執筆した天声人語のなかからベストセレクトしたものだ(後続して2冊ある)。

「天声人語」というのは、地方の一高校生時代は〈ありがたいモノ〉として純粋に承るばかりだったが、その幻影を見事に打ち砕いたのはだいぶあとになって読んだ、日垣隆「ひきこもる『天声人語』の断末魔」「『天声人語』パワーダウンの歩み」(それぞれ、文春文庫『エースを出せ!』所収)だった。

その切っ先は、当時「天声人語」を執筆していた「天声人語クン」(朝日新聞論説委員 故小池民男氏のこと)に鋭く向かっていたけれど、深代惇郎については、その執筆テーマの幅広さに加え独特のユーモアと皮肉とを、日垣は評価した。
坪内祐三にいわせれば、ミスター天声人語といえば、昭和30年代までは荒垣秀雄だが、2代目は深代惇郎だという。

大きな声でいえないが、ふとしたことで盗聴テープが筆者の手に入った。驚いたことに、先日の閣議の様子がそっくりテープで録音されているではないか。

という一文ではじまる「盗聴テープ」(1973年10月31日)は、じつは全文が冗談だが、ユーモアを解さない《二階堂官房長官から、本社あてに、厳重な申し入れ文書がきた。》という〈本当のこと〉を翌日のコラムでばらしてしまう、ということもやったりした。
いささかユーモアが先走っているが(苦笑)、いまだったら大騒ぎだろう。

氏の「天声人語」のなかでも、坪内祐三オススメの「ボルテージ」という一文を読んでみる。

毎日、コラムを書いていると、きょうは思うような材料が見当たらないという日もある。書くことがなくて、書かねばならぬときは動物園に電話を入れる、というのが昔から新聞記者の習性の一つにあった。

という書き出しは、こんなリアルな内省の結末へとつづく。

書くことがなくて、動物園にも異変がなくて、トイレットペーパーも出回ってきて、雪月花にも感慨がわかないとは、政治の悪口を書くといってはふがいない話だが、そういう時もある。本人は、ほかにないから書いているのであって、そう朝から晩まで悲憤慷慨しているわけでもないのに、コラムだけは次第に憂国のボルテージが上がって、自分とはいささかちぐはぐの「書生論」になる。
ジャーナリズムには、そういう気のひけるところがある。

こんな真情あふれる一文が、朝日新聞の一面に載るなんて。コラム創設110年以上の歴史のなかでも、希有な時代だったのだろう。

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