夕刊と新聞小説

本日、facebookに投稿した一文をサルベージしておく。


この1週間、又吉直樹の新聞小説「人間」を読むために、毎日新聞の夕刊をずっと買い続けていた。
駅売り(キヨスクとか)で50円。主要コンビニでもほぼ売っていない。毎日新聞だけでなく、夕刊自体がそもそも売っていないのだ(売っているのは夕刊タブロイド紙ていど)。

じっさいに手にしてページを開いて改めて感じるのは、今日日(きょうび)、夕刊っていったい誰が買うんだろう、ということだ。たとえば、朝日新聞の夕刊はエンタメ系がわりあいと充実していて、読み物としても面白い。日経その他は知らず。毎日夕刊の紙面は、どうにも寂しい気配が漂う。
ぼくは「人間」という小説を読むために買っているけれど、この連載が終わったら向こう、もうおそらくは買わない(村上春樹が新聞小説を連載するというのなら別)。

毎日に限らず夕刊というメディア自体が長く続かないんじゃないかなあ。あ、産経新聞はとっくに終わっていましたね。

でも、新聞小説という〈仕掛け〉はいまでも面白いと感じる。好きな小説家が書いた小説がほぼ毎日ちょっとずつ読める。
なんか、うれしい。
わたしが欲しいのは、ちょっとずつという〈小分け〉のシステムだ。夕刊ではない。

ぼくの場合、いまは慶應通信の勉強が優先順位第1位(いちおうね)なので、小説読めないモード全開ということもあり、スキマ時間帯でさささっと読める新聞小説は、素直にうれしい。
けど夕刊という〈器〉は、いまやとってもアクセスしづらいメディアになっている。わざわざ駅にまで行かねばならないし、ネットで見るときには有料契約せねばならんし。
それゆえにこの〈極北〉な感じが、ぼくを駅へと駆り立てる(って、帰りに立ち寄るだけですけど、そこで買いそびれたら手に入らないのが実情)。

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