来たるべき時は、やがて訪れるものであるのだ…

1+

先日、ネットの記事で、「ウルトラセブン」の音楽で有名な作曲家、冬木透先生のインタビュー記事を見つけた。お元気そうで何よりだと思う。

もう彼此10年近く前になるだろうか、東京の上野で開催されたウルトラセブン関連の演奏会に冬木先生がゲストでいらっしゃったことがあった。
その演奏会には、音大で先生の教え子だったと言う僕の知人も来ていたので、開演前に連れ立ってサインを頂戴しに上がったのである。僕が手にしていたのは、讃美歌の小さくも厚い歌集だった。


(出典:「時事ドットコム」)

冬木透先生は、本名の蒔田 尚昊(まいた しょうこう)で「ガリラヤの風かおる丘で」という讃美歌を作曲されている。僕にとっては、幼少期の記憶がやや薄いウルトラセブンよりも、このお気に入りの讃美歌の方で馴染み深い作曲家だったのである。
僕がおずおずと歌集を差し出すと、知人は先生に僕のことを紹介してくれた。僕のことを「いつか讃美歌を作曲したいのだそうですよ」と言い添えて。

それを横で聞いて僕は、嗚呼そんなことを言っていたこともあったけな、と実際の讃美歌作曲家を前にして、却って恥じ入ってしまったのだった。大学教員でもある先生は、学者然とした佇まいで、見返しのページに快くサインをしたためて下さったのである。
僕はあれからまだ、讃美歌どころか世俗的な曲のひとつも作っていない。いかんいかん、人生でまだやるべきことは沢山ある。そんなことを、この記事を読みながら思い返したのだった…。

上は「ガリラヤの風かおる丘で」をYouTubeでいちばん上手に歌っている(と思う)動画。こういった日本オリジナルの讃美歌で良い動画は、なかなか見つからないものだ…。
ちなみに、動画のタイトルは聖歌の番号で書いてあるけれども、僕が持っているのは「讃美歌21」という歌集で、そこでは第57番の歌である。

あと、もうひとつ思い出した。先生のペンネームである「冬木」というのは、柊の木が好きなのでそれに因んだ、というお話もその音楽会で聞いたのだった。でも、「透」の部分はさて、何だったかなあ…。


さて、昨夜のことになるけれども、僕が塾の仕事に行っている間に実家の母から電話があったと、かみさんが言う。今年102歳の祖父が危篤だとのことである。あと1〜2日らしい。実に急なことだった。

それを聞いて僕は、様々な感情が一切通り過ぎ、嗚呼そのときが遂に来たか、と感じた。
寝たきりにもならず、ボケもせず、カラオケが今でも好きだった祖父である。謂わば、ピンピンコロリの境地だ。人生にこれ以上の手仕舞いはないだろう、というくらいの理想的な生き方ではなかったか。

多分今週末は葬儀になるだろうから長野に来られたら来て欲しい、とも母。幸いなことに何故か、僕はこの土曜日には仕事を入れていなかったのである。銘酒「獺祭」など、松本に送ろうと思っていたものをそのときに手渡し出来そうだな、等と他のことも考える。
人は100歳を超えると、その後の生存率は一年でほぼ半分ずつになると言う。祖父は、その網を二回もくぐり抜けたわけだ。三度目が叶わなかったというだけのことで、もうこれは致し方がないだろう、とも思う。

それからふと、去年身罷ったねこのことを思った。ねこは20歳を超えるのが難しいものだと、あのとき感じたのである。僕は、徒に長生きすることそのものに価値があるとは余り考えず、生き方や中身の方が重要だと愚考する。
ねこも祖父も、生命の灯火が完全に尽き果てるまで元気に全力で生き切ったということにきっと意味があるのだろう。どちらも、実に善い人生(ねこ生)を送ったのだ、と僕は今も心より賞賛するのである…。


そして、きょう。再び母から電話があった。祖父は今朝方、午前2時前頃に亡くなったのだそうだ。多分、老衰なのであろう。やはり、去年のねことまるで同じ展開であった。
葬儀は土曜日らしいので、行って来なくては。冬季講習で忙しくなる前に、これは少々忙しくなるな…。まあ、僕が忙しいのはいつものことさ。

上の写真は、百歳のときのもの。きっと、今もこの頃から殆ど変わっていなかった筈なのだ…。

天が下の萬の事には期あり 萬の事務には時あり
生るるに時あり死るに時あり 植るに時あり植たる者を抜に時あり
泣に時あり笑ふに時あり 悲むに時あり躍るに時あり

『舊約聖書「傳道之書」』より抜粋


……

1+