齢百を超えていた祖父が身罷りまして、急遽母の実家へ…

先週の19日付の投稿のつづきである。
翌日、母から電話があった。祖父は未明に亡くなったのだそうだ。老衰であった。行年(享年)103である。去年のねことまるで同じ展開であった。ずっと元気にしていたのに、老衰で急に元気がなくなり身罷るという…。

葬儀が週末にあるとのことで、行ってきた。下の写真は、祖父百歳のときのもの。以前も載せたことがあったと思う。きっと、現在もこの頃から殆ど変わっていなかった筈である。

そして、葬儀の当日。振り返って見るに、これは実に一日仕事であった。午前5時に起床して母の実家がある市へ向けて出発。高速道路を駆って2時間ほどで着いた。
母からは電話で、午前7時半に斎場へ、と聞いていたと思うのだけれども、その場所で待てども誰も来ない。職員の方に訊くと、スケジュールでは9時半からだと言う。うーん、僕が聞き間違えたのか、母が言い間違えたのか…。

祖父の家(母の実家)へ急ぎ行った。丁度、納棺が終わるところであった。その後、住職さんがお経を読み、暫くして出棺。嗚呼、間に合った。それから、皆んなで斎場へ。
所謂、焼き場というところへ出向くのは、僕は20年ぶりくらいだろうか。設備が近代的に様変わりしていた。液晶モニタ付の電動キャリーで棺を運搬するのである。いやあ、これは21世紀の風景だ、と少々感心してしまった。

お骨を拾ってからセレモニーホールへ。移動が多いので、僕は車で来て良かった。用意されたマイクロバスは満員だったのである。後ろに父を乗せて走る。
祖父は浄土真宗だった。声明(しょうみょう)のような朗々とした読経の最後には南無阿弥陀仏を唱えるのが慣わしのようである。読経のあいだ僕はずっと拍を取っていた。6拍子と4拍子の2種類のお経があることに気づいた。

それから、また車に乗ってお寺へ行き、再び住職さんの読経と講話。やっと祖父の家に帰って来られたのは、もう日が暮れなずむ頃であった。祖父も、丸一日ぐるりと一回りして、こうして形は変われども、再び戻って来たというわけだ。

祖父が世を去るに当たって、様々な写真や話が発掘された。そのひとつが上の写真。セレモニーセンターに飾られた、祖父の思い出写真のコラージュである。そのひとコマだ。

祖父は、戦争中に夫婦で満州へ行っていたのだけれども、現地では満州鉄道の駅長をやっていたのだそうである。母の話によると、祖父は70倍の難関を突破してこの職に就いたのだと言う。
そして、給料の3分の1を生家へ仕送りしていたのだそうだ。日本の家族のために働く、頑張り屋だったのだ。いやあ、どれもこれも知らなかった話だなあ。もっともっと祖父のことを尊敬の眼差しで見てあげれば良かったな、と思えども既に遅し…。

上は、つまり祖父の満鉄時代の肖像写真なのだ。見る人が見れば、これが満州鉄道の制帽と制服であることが直ぐに分かるようである。葬儀の会場でも、その声が幾つか聞かれたのだった。

そして、上の写真は、僕の母の母(つまり実の祖母)の写真。先達て見せて貰った高等女学校時代のセピア色の写真の、数年後である。(女学生当時の写真は、こちらの投稿に掲載)
上の写真では、女学生当時の面影を残しつつも、あどけなさは幾分消え去り、凛々しい面持ちへと変わっていっているように思われる。教師をしていた頃に撮ったのだろうか?

祖母は、この更に数年後に夭折することになるのだけれども、せめてあと50年は生きていて欲しかったと思うのだ。でも、今頃あの世で祖父と懐かしの再会となっているのだろう。そう思いたいものである…。

あと、祖父の葬儀で、大学教授という人が僕のそばの席に座っておられた。その方は母のいとこなのである。某私立大学の教授であることを、あとで母から教えて貰った。
その後、調べてみると見つかった。薬学博士であり、その大学の要職に就いておられる方だったのだ。結構、偉いんだなあ…と言うか、母の家系は僕の認識よりも遥かに地位や学歴の高い人が多いことに、今回気づいたのだ。きっと今まで皆んな、内緒にしていたなw


さて、トップの写真は、祖父の葬儀の翌日、夜半に降った雪である。いつの間にか、しんしんとした降雪が始まっていたのだ。実家の窓から、ニコン P900でフラッシュを焚いて撮影。このように、雪が降っている写真にはフラッシュを使うのがコツなのだ。

よく、お葬式のときに雨が降ると「涙雨だね」などと言うけれども、さてこれは何と言い表したら良いのだろう。「涙雪」かな。でもまあ、翌日のことだったので、祖父の葬儀とは直接関係がないのかも知れない…。
何にせよ、僕にとっては今冬初めての雪であった。実家に下宿している息子は次の日にも大学の授業がある。さて、これだけ降ってしまったら、どうやって通学したら良いのか?などなど、つづきは次回の投稿にて。

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