かの文豪の埋もれた掌篇と天才鬼才指揮者の新作を味わい、久々にショートショートをしたためたのだ…

一昨年、帰省した際に鉢植えを貰って来たことがあった。母がアボガドの種を植えてみたら芽が出たのだそうだ。
そのときは十cm程の小さな苗木で「うちに置いておくと冬の寒さで枯れてしまうかも知れないから、代わりに育ててよ」と言う。そこは北アルプスの麓の街である。

僕は車に積んで持ち帰り、南側のベランダに置いた。時折、水を遣っている。
やや厚みのある緑葉は、秋になると茶色になって全て落ちる。そして、細く枯れ枝のように屹立した木は、冬の寒さをじっと凌ぎ、暖かくなった頃に再び黄緑色の葉を幾つも芽吹かせ、いずれ青々と繁るのだ。

今年もまた、そのようになった。もう倍以上の高さに育っただろうか。葉の数も一層増えた。ベランダを煽る強風に揺ら揺らと自らをしならせながら、高積雲の浮かぶ青空に映えている。
今朝、かみさんがサラダを作るときに、丸くて大きなアボガドの種がまたひとつ採れた。ふと、それも植えてみようか、と思った…。


上の文章を「ショートショートガーデン」に投稿してみた。11ヶ月振りだった。
それというのも、先達て新聞記事(ネットニュース)で、三島由紀夫が24歳のときに書いた400字の掌篇小説(題は「恋文」)が発見されたという記事を読み、おおそんな昔から400字のショートショートというものが存在していたのか、と感慨深く思ったからなのだ。

その記事には、昭和24年の新聞紙上で特集された「400字小説」のひとつとして掲載された作品だ、と書かれている。新聞とは、朝日新聞の大阪本社版と西部本社版であるという。
…ということは、同じ特集の中に他の作家の作品も多くあった筈で、是非ともそれらをひと通り読んでみたいものだと思う。

さて、その翌日、三島由紀夫の400字小説「恋文」が掲載されているという雑誌「新潮」の今月号を手に取った。
当該のページを開くと、扉には若き日の三島のポートレイトが載っている。大蔵省当時に撮影したものなのだろうか。更に捲ると、400字小説がある。当時の新聞紙面の写し及び、それを新たに打ち直したものが見開きで左右に掲載されていた。

ところで、その新聞紙面の写しの下には、三島の名前に誤植がある旨が添えられている。これがどうやら、この作品がずっと埋もれていた原因のひとつらしい。(原因は他にも幾つかあるようだ)
更に、ネットニュースに載っていた初出当時の新聞紙面(朝日新聞大阪本社版、下の写真右側)と、「新潮」に載っていた紙面の写し(同西部本社版、左側)を比べてみると、「三島由紀夫」の部分だけ差異があることに気付く。

大阪本社版では正しく表記されている一方、西部本社版は「由起夫」のように誤植を起こしてしまっている。

同じ原稿で何故、片方の版だけ間違ってしまったのか実に不思議なのだけれども、鉛の活字を一個ずつ拾っては組版していた時代ならではという気もするのだ。
この当時は、三島由紀夫が大蔵省を退官して作家専業となった翌年のことだったそうなので、まだ知名度も現在ほどには高くなかったのかも知れない。しかしまあ何とも、はや…。

さて、「恋文」は一読すると、家庭内におけるふとしたひとコマのように読めるけれども、次のページにこれも見開きで掲載されていた大阪大学准教授による寄稿には、この掌篇が持つ時代性や小説としての奥行きが存分に解説されていて、こちらも読み応えがある。

特に、その稿の最後に引用されていた、
「長篇小説と等しい質量をもたない掌篇は無意味である」
「掌篇小説は、水の上に現れた氷山の一部分である」

という三島の言葉には、400字ショートショートを一応に書いてネット上で投稿している僕の胸にもズシリと重く響くこととなった。今後も、これらのことを心していきたいと思っている…。


さてさて、先日は待ちに待った、天才鬼才指揮者であるテオドール・クルレンツィスの新作発売日だった。曲目は、ベートーヴェンの「交響曲第7番」。

昨年の所謂ベートーヴェン・イヤーにCDのリリースとコンサートツアーが発表となってから、その演奏会は軒並み中止となり、秋頃に発売予定だったCDは何度も発売が延期となった。そして、とうとう楽聖の生誕250周年には間に合わなかったというわけである。
レコーディングそのものは2018年の内に済んでいたそうだけれども、いつもスタジオワークに膨大な時間をかけるクルレンツィスのことだ、コロナ禍で作業が思うように進まなかったであろうことは想像に難くない。

僕は、朝のうちにセブンイレブンに立ち寄って、タワレコから送られて来たばかりのCDを受け取った。早速、開封。のちにワーグナーが「舞踏の聖化」と名付けた第7番を、若き天才鬼才マエストロは如何に料理したのか楽しみにした。

惜しむらくは、クルレンツィスの手による英文ライナーノーツが、今回は掲載されていなかったことだ。ギリシャ出身のこの巨匠がしたためる形而上学的で思索的な散文も僕は毎回心待ちにしてきた。
嗚呼、残念だな…。きっと余程にお忙しかったのだろう。その代わりに、海外の音楽ライターか評論家と思しき人の文章が載っている。

それから、夜になって漸く聴く時間を得た。ときにスコアを捲りながら、またときにはワイヤレスイヤホンを付けたまま風呂に浸かりながら聴いた。
丁度1年前に発売された第5番「運命」は、実にダンサブルとも言うべき稀有で且つ秀逸な演奏だったので、今回の第7番も嫌が応に期待が高まる。

この7番は、上述の通り「舞踏の聖化」と称される曲である。クルレンツィスは、5番とはまた異なった意味においてやはり舞踏の音に仕上げたのだろう、と僕は一聴して感じた。
時折、符割りや装飾音、アクセントなど、スコアに独自の解釈を加えながら、この曲を様々な幾何学模様に描いていったのだ。特に、第2楽章「不滅のアレグレット」はゾクゾクと痺れを感じる程であった。
(ベートーヴェンは何故、この楽章をもっと長く書かなかったのだろう…。実に勿体ない、と聴く度にそう思う)

さて、テオドール・クルレンツィスは次回作に何を持って来るのか。新作のリリースはまた1年後のことなのかも知れない。そろそろラフマニノフは如何だろうか。いや、それは単純に僕の好みであるw それか、ブラームスも良いなあ…。

あ、そうだ忘れていた。テオドール・クルレンツィスは、ここ2年くらい、よくヴェルディの「レクイエム」を振っているのだ。オケは手兵のムジカエテルナだったり、ベルリンフィルだったり。きっと、次のCDはその曲になるかも知れない、と思う。
下にリンクした動画は、ムジカエテルナ演奏によるヴェルディ「レクイエム」のライヴ。流石、クルレンツィスの意図によく反応している出音だと感じられる。鬼気迫る超熱演のマエストロも必見だ。


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テオドール・クルレンツィスの前作、ベートーヴェン「交響曲第5番 運命」のレビューは、こちらの投稿です。その中で僕は、クルレンツィスの次作は黒のジャケットになるかも、という旨を書きましたが、見事に外れましたw 実際には、下のように鶯色っぽい黄緑色です。さて、このジャケットの色にはどんな意味が込められているのでしょうか?クルレンツィスがこれらの曲を聴いたとき脳裏に浮かぶ共感覚的な色彩なのかな?などと僕は妄想したりもしますが、如何…?

『ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 作品92』
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