倉敷突入記 vol.2

倉敷突入第二報。

(書く時間が取れず掲載が遅くなりすみません)

日曜日の活動が終わり、今日出会ったばかりの若者たちと別れ、倉敷の「木賃宿」へ戻った。
起きて半畳寝て一畳のさらに下を行くタコ部屋ではスーツケースを広げるスペースも無く(泣) シャワー付き洗面所?洗面ボール付きシャワー!?には顎の高さに通っている梁に何度も頭を打ち付ける始末。(痛)

洗濯しようとフロントへ行くと、地図を渡されコインランドリーへ。
その地図にはホテルから650m先。と記されていたが、普段でさえ「歩くのが早い」と女性の方々から苦情を受けている私の歩幅をしても丸々25分。ネットで見るとしっかり2キロ。。。。エエ加減にせえよ!。。。。

コインランドリーにつくも、ほぼフル稼働。
普段清潔に保たれていることは間違いないであろう床には黒い泥の線が所々ヘビのように引かれていた。
何台かの大型洗濯機の前には泥色に染まった衣服が山積みになっていた。
泥の下洗いもしていない衣服。。。
無論、大変な状況なのは分かるが、洗濯機へのダメージと、直後に洗濯する方々の思いはいかがなものなのか。とは正直思った。

宿に戻り、すでに汗まみれなシャツを着替え、倉敷駅前の居酒屋へ向かう。
この日倉敷入りした仲間達と合流した。
一人は大阪から。元自衛官で現在金融関係の仕事をしている。
一人は京都から。学生時代はある競技で日本一を争う選手だったが、現在は引退して某大学で働いている。
もう一人は私の同級生で長い付き合いだ。ある時期には、その筋ではかなりな有名人だったが、綺麗さっぱり足を洗い、今は事業を立ち上げしっかり稼いでいる。

この3人と打ち合わせがてら集まり、先遣隊として今日の活動やボラセンの様子、空気感などを伝える。
同時に翌日倉敷に入る残りのメンバー3人はタブレット端末にてテレビ電話?で参加。
今回は私を含め7人。代わる代わる2日づつの活動。
阪神淡路大震災時に協力して炊き出しをしていた仲間。鳥取西部地震のボランティアで出会った者。東日本大震災の時に被災地各所で出会った者。
皆、様々な「現場」で活動してきた「猛者」?いや「野武士」みたいなものか。
現場報告、対策、打ち合わせと有益な情報を共有し、明日以降の活動や必要物資など、それぞれの関係者やボランティア団体などに活かして行く。

一通り打ち合わせを終え、他愛も無い話しで盛り上がっていると、なんとも奇遇な共通点が発覚して驚くやらおもろいやら!!。
今になって、7人全員、それぞれ武道の有段者!!であることが発覚した。
剣道、柔道、居合道、合気道、空手。。。。。(笑)
なんか、このメンバーで集まると怖いもんないなあ~。と誰かが。(笑)
そやなあ、ヤクザも支那朝鮮人も政治屋共も怖わないけど唯一「税務署!」だけは恐怖の存在やなあ~。。。と言ったら一同爆笑していた。
なんだかみんな古い付き合いになったなあ。と感慨深い時間だった。

月曜日。午前8時40分。
昨日同様新倉敷~ボラセンとマイクロバスで運んで頂き、受け付けを済ませる。
昨日、事前に話していたボラセンのスタッフに導かれ、我々4人は「2回目以上」のボランティア参加者ルートを通り、例の5脚並びのパイプ椅子の左端の椅子におっさん4人が縦に並んで座る。
グループでボランティアに来られる方々の多くは「グループでの活動」を希望されることが多いのだが、我々は真逆。兎にも角にも少しでも「現場を識る」人間は散らばって、不慣れな方々を導きながら少しでもこれまでの経験をお伝えし、次世代に引き継ぎ、活かして頂きたいとの思いがあり、今回は理解あるボラセンスタッフの強い要望もあってそれぞれの現場で汗を流すこととなった。

倉敷ボラセンの方々とは1週間以上前から電話で話していた。
私が聞いておきたかったのは足りない道具類のことだった。
最初に尋ねたのは「み」はあるのか??ということだったが、対応してくれた若い女性には意味すら伝わらず、「ミ」です。「て み」です!!と言っても電話での会話では中々通じず難儀したのだが、年配の方に変わって頂いてやっと意味が通じたけれどほんと疲れる会話だった。
「み」とは通称で一般用語では「て⤴ み⤴」と呼ばれるが、関西人の私は「みぃ~⤵」と語尾が下がる。対して岡山の方は関西以西なのになぜだか若い世代はほとんど「関東弁」なのでニュアンスが違い過ぎて往生した。

「て み」ですが全くありません。こちらのホームセンターなどには1つの在庫も見当たらないです。と聞いていたので、関西から大小25個の「て み」を送っていた。
結果的に大正解だった。
スコップや一輪車などは余りかえっていたが、泥や土砂、水をすくい運ぶのには「て み」が最も適している。しかも一度の動作でスコップの3倍ほどは搬出できる優れものなのだ。

昨日同様、我々の隣に座った方々が今日のチームとなり、それぞれのサテライトセンターへ移動。
私の隣に座ってしまった気の毒な(笑)女性は姫路から車で参じてくれていた。バスでの移動中「4人の方々はみなさん何者なんですか!?」とほとんど不審者扱いであったが、「まあ、みんないろんな修羅場は潜って来てるんちゃうかなぁ」と答えておいた。(笑)
私だけでなく、仲間3人も同様の質問をされたようで、またことごとく同じような答えを返していた様だった。
この日(月曜日)のボラさんの総数は780名あまり。
皆さんが長蛇の列を成しながら順番待ちをしておられる中、我々だけが別ルートで先に着席していたので疑問に感じるのは無理も無い。

昨日同様!!これ見よがしに紺色のベストを着込んだ「緊急支援 ピースボート」の連中の段取りの悪さが。。。。。
昨日の活動終了時に「あれほど!!」「あれほど!!!罵声混じりに的確に指示、指摘、と、事前の段取り」を言っていたのにも関わらず。。。

昨夜仲間達には「ちゃんと段取りするように指示指摘しておいた」と言う報告はもろくも踏みにじられた格好だった。
昨日同様百数十人のボラさんを殺人的カンカン照り、異臭漂う埃の中20分あまりも待たせやがった「クズピースボート」などの連中はただの「無能」としか誰の目にも映っていなかった。
うちのメンバーは、「あのクズボート連中放逐して俺らで仕切ろうや」と言い出す始末。
左巻き連中の決断力と段取り能力の無さをいやという程思い知らされた。

20数分後ようやく活動先が決まり、持参した「て み」を各グループに配布する。この「て み」の持ち手の部分にはマジックで「義」の一文字を書いてある。
恐らくは2~3日で消えてしまうのだろうが、せめてもの気概だけは届けたいと思った。

そして各昨日同様、各地域の被災家屋へ。

活動自体はほぼ変わらないので割愛させて頂くが、普段の、日常のあたりまえの生活が泥水によって破壊された住宅の、家族の営みを思うと。皆黙々と作業を続けていた。

作業を終え、道具類を洗浄し、持参させてもらった「て み」を寄贈する旨をボラセンに申し出た。
寄付にまつわる書類に記載を求められ、「寄贈者、寄贈団体名」の欄には「兵庫義の会」と勝手に書いてやった。
健康チェックがてらしばしボラさんたちと話し、それぞれの方の思いに耳を傾ける。

それぞれ、いろんな思いをもって参じてくれているのだと胸に迫るものがあった。

ボラセン本部で友人達と合流。
写真などを撮る気などとっくに消失している仲間達なので、倉敷への電車の中でお互いの活動報告と申し送り事項などを話し、近くのホームセンターへ向かいリサーチ。

作業着が異様に売れている。当然のことながら「て み」など一つも無かった。水害支援の為の特別割引が行われていたが、今一つ現地ニーズとの乖離があり、残念。

 

駅近くの温泉施設へ向かう。

風呂上り、地元新聞を読むも、遠く離れた東京のアホ知事や大マスコミなどの温度差に愕然とする。

皆とがっちりと握手し、そそくさと関西への列車へ乗った。

日常。全く連絡など取り合わない私達であるが、少しでもこの国の御為にお役にたてる国難などが起これば、またどこかで集結するんやろうな。。。などと、寂しくもあり会いたくも無い複雑な思いを抱えながら車窓をながめていた。

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