専門外国書講読(3回目)

先月末あたりから、慶應通信の夜間スクーリング[専門外国書講読]を受講している。今夜で3回目。

講読するのは、ジュディス・バトラーの論文「Quandaries of the Plural」(「複数的なるものの苦境」)。副題は「Cohabitation and Sovereignty in Arendt(アーレントにおける共生と主権)」。ハンナ・アーレントの思想についての論文を、冒頭から訳している。

原文はこんな感じ。

I propose considering the emergence of this notion of cohabitation in the Eichmann trial (although I do not contend that this is the first instance), since, in at least one moment in that text, Arendt voices an accusation against him, namely, that he and his superiors thought they could choose with whom to cohabit the earth. It is a controversial line since the voice in which she levels the accusation is and is not her own, but the implicit and firm conviction voiced here that none of us should be in the position of making such a choice, that with whom we cohabit the world is something that is given to us, prior to choice6and even prior to any social or political contract. As I hope to have clarified in the last chapter, for Eichmann the effort to choose with whom to cohabit the world was an effort to annihilate some part of that population and so the exercise of freedom upon which he insisted was genocide.

アイヒマン裁判における共生というこの概念の出現を考えることを提案したい(とはいうものの、この考察に前例がないとまでは主張するつもりはないのだが)。なぜなら、少なくともそのテクストのある段階において、アーレントはアイヒマンへの告発を表明するからだ。具体的に言うなら、彼と彼の上司たちが、自分たちは地球上で誰と共生できるかを選ぶことができると考えた、という告発である。アーレントが非難を浴びせるさいの声が彼女自身のものである、と同時に彼女自身のものでないはないために、物議をかもしているのだが、ここではっきりと表明されているのは、私たちの誰しもが、そういった選択を行う立場に身を置くべきではないこと、私たちはこの世界で誰と共生していても、世界とは、選択に先んじてーーそしていかなる社会的かつ政治的契約にも先んじてーー私たちに与えられものであるということだ。私は先の文で明確にできたと願っているのだが、アイヒマンにとってこの世界で誰と共生するのかを選択する努力とは、人口のある部分を殲滅する努力であり、それゆえに彼が主張する自由の行使とは大量虐殺(ジェノサイド)であった。