話しかけられる
ある年代を過ぎたころから、外で、いきなり知らない人に声をかけられるようになった。
この週末も、スーパーで完熟トマトを選んでいたら、いきなり見知らぬおばあさんに、トマトの皮の綺麗にむける方法を知っていますか、と言われた。料理にはまったく興味がないので、トマトソースを自分でトマトから作ったことなどない。いつも、瓶詰めを使っている。だから、もごもごと、五十年近く前に母に教えられたとおり、熱湯をかけると答えると、おばあさんはトマトを手にとって、へたの反対側を指しながら、ここにこう十文字の切れ目を入れて、20秒熱湯につければきれいにむけますよ、と言った。有難うございますとお礼を言って離れたが、一体なぜいきなり私にトマトの湯むきの仕方なんか教えてくれたのだろう、よっぽど物を知らなそうに見えるのか、それとも認知症気味で、脈絡もなく誰にでも話しかけているのだろうか。
次に、アジア食品の棚のところに来ると、南米系の家族が熱心に議論をしている。私を見て皆の顔がぱっと輝く。一人が、オイスターソースの瓶を見せて、これは日本料理に使うものか、中国料理なのか、と尋ねる。これは、中国料理に使うもので、日本料理に使ってはだめですよ、と言うと、カートに入れた。本当に、使い方分かってるのかな。
それから、二階の台所用品などの売り場に行くと、後ろから背中をつつかれた。振り向くとよぼよぼのおじいさんがいる。何を言っているのかもよくわからないが、用件はすぐわかった。トイレットペーパー12個入りのパックをプラスチックの袋に入れようとしているのだが、袋の口が小さくて、入らないのだ。二人がかりで袋の口を広げて押したら、なんとか入った。よかった、やっと本当に誰かの役に立つことをしたと、少し気分がよくなる。
声を掛けられるのは、イタリアでばかりではなくて、京都に帰った時も、よくいきなり話し掛けられる。お寺などを観光している時に、同年代のおじさん、おばさんが、「このお花きれいですね」とか、「このお庭を見ていると気持ちがすっきりしますね」とか、感想を言ってくれるのだ。
若い頃は、内面の緊張が外にも出て、なかなか声を掛けにくい雰囲気だったのだろう。それが、中年のおばさんになり、初老のおばさんになるとともに、安心して声を掛けられる雰囲気が出てきたのかな、と思う。