テロリスト(2)
セスト・サン・ジョヴァンニでも、他の北部イタリア諸都市と同じように、イスラム系移民の急増が目立っている。普通に街を歩いていて、人々の話に耳をすますと、十人に一人はアラビア語で話しているという感じだ。それが、移民の固まって住んでいる地区に行くと、三人に一人はアラビア語の感じになる。大半はモロッコ、テュニジアから来ている。だから、テュニジア人であるベルリンのテロリストがわざわざここまでやって来たのは、つてがあって来たという可能性もあるだろう。
新聞には、そういう観点の記事は少なかった。もちろん、もし当局がセストの移民たちを捜査しているとしても、それを公表したりはしないだろう。ただ、こういうことがあった。
朝用事があったので、平日の午前中半日の休みをとって、用事をすませて午前十一時頃家に帰って来ると、警察官がちょうどうちの建物の前に立って呼び鈴を押している。何か御用ですかと声をかけると、私の顔をじっと見つめたあと、いや、一階に用事があって、と言って、立ち去ってしまった。
私の家は、ヨーロッパの都市の大半の家がそうであるように、共同住宅である。イタリア語では、condominioという。これを日本語に訳そうとすると、マンションという言葉しか思い浮かばないのだが(アパートというと、日本語では何だか木造の感じがする)、マンションというと、かなり新しく建った建物というイメージがあると思う。でも、イタリアの建物は、いったん建つとまず壊さないから、都市の中心部では何百年も経った共同住宅もたくさんある。もちろん、私の家はそんな高級住宅ではなくて、1950年代に建てられた、きわめて庶民的な建物である。きっとこの地域が住宅地として開発された時に建てられたのだろう。
共同住宅としては小さいほうで、全部で九世帯が入っている。一階(日本流にいうと二階)から四階まで、各階にフラットが二つづつあり、地上階(日本の一階)だけ、建物全体の玄関と通路に場所をとられている分、フラットが一つだけにになっていて、そこが私の家である。
たいていの世帯では、住んでいる人が所有者だが、中には家主が不在で借家になっているフラットもある。一階のフラットの一つも借家になっていて、その借主がイスラム系なのである。
以前そこに住んでいたおばあさんが亡くなって、新しい借家人が入ってからしばらくして、共同住宅の他の住人たちの主な話題は、この家のことになった。まず第一に、「あの家にはいったい何人住んでいるんだ?!」である。家を借りた男は、いつもではないが定期的に見かけられる。だが、その他に出入りしている男たちが、見る度に違うのだ。そして、家の中には最低でも常時五、六人の男がいるような気配がする。これは、道路をはさんで向かいの家の住人からの情報で裏付けられた。その人の家はこちらの一階と同じ高さだから、開け放した窓から、中がよく見えるのである。五、六人どころか、もっとたくさん寝泊まりしているらしいということだった。ひょっとして、不法移民の宿泊所になっているのではないか。フラットは、普通なら二人か三人の家族にちょうど良い大きさだから、相当すし詰めだろう。
第二は、「ベランダにじゅうたんを干している」である。道路に面した側は、美観のため、洗濯物を干したり、ベランダに物をごちゃごちゃ置いたりしてはいけないのに、彼らはバスタオルくらいの大きさのじゅうたんをベランダの手摺に掛けて干している。お祈りに使うじゅうたんだろうか。
第三には、「やかましい」。イタリア人も声は大きいけれど、夏の夜の一時頃、蒸し暑いので皆窓を開けて寝ている時に、ベランダに出て大声で携帯で話したりはしない。声があたり一帯にびんびんと反響して、それが何を言っているのか分からない外国語だから、よけい腹が立つのである。
その後しばらくして、初めてベールをかぶった女が現れた時には本当にびっくりした。ベールといっても顔まで覆うものではなく、ヒジャブと呼ばれる、髪と首をかくすが顔は隠さないものだったが。その上、小さい子供まで現れた。ある人(三階の住人)の観察によると、どうも冬は男だけで、夏になると女子供が現れるらしい。国から呼び寄せているのだろう。
こういう状態が数年続いているが、最近は少なくともベランダにじゅうたんを干すのはやめた。きっと誰かが正式に苦情を言ったのだろう。住人がころころ変わるのは相変わらずで、今は数人の男に加え、女が二人、二歳くらいの子供を連れて出入りしている。
そういう経過があったので、警官が、一階に用事があって、と言った時には、ああ、ちゃんとマークしていてくれたんだと、嬉しかった。アニス・アムリも、もしこういう家に知り合いがあったら、しばらく人目につかないように隠れているということは、充分可能だったろう。それを思うと、人の死を喜ぶのはいけないことではあるが、アムリを一発で射殺した警官は本当によくやったと思わざるをえないのである。