兵庫 義の闘い vol.1

vol.1

平成29年4月26日「兵庫県知事、やります」。「勝谷誠彦××な日々」と言う有料配信メールのヘッダーである。

この日記を昼の休憩時に読んだのがもはや遠い、遠い昔の事と感じられるほど、エゲツナく濃厚なひと月あまりの時間を書いて行こうと思うが、何せすさまじく、目まぐるしい日々だったので、ゆっくり思い出しながら書いて行きたいと思う。

(選挙の事を書こうとしていたのに、何かとんちんかんな自伝もどきのようになってしまいました。お許し下さい。次からは選挙中心に書いて行きます。)

まずは私の奥京都住まいの理由から書かねばならないか…。

私は阪神淡路大震災時、明石市の自宅が半壊し結局取り壊した。長田、灘、東灘、明石や淡路の親戚や友人の家も同様の被害を受け、お互い行ったり来たりの避難生活を過ごし、肩を寄せ合って乗り切ったものだ。

工務店を営む私の父、伯父と共に丸一年ほとんど休まず被災地域を住宅復旧に走り回る傍ら、仲間たちと資金を出し合い長田や灘などで炊き出しに精を出し、マスコミは報道しなかったが、レイプやひったくり、強盗などが頻発していた神戸各所で「軽武装夜回り」をずっと続けていた。(東日本大震災の時はもっとひどかった(怒))

私の恥を晒すのは承知でこの際書くが、当時私は23歳で高校2年生だった。
親戚に某有名任侠団体の最高幹部が居たり、私の住む地域に隣接する被差別部落の方々と日々戦う荒くれ者の漁師町に生まれ育ち、部活以外は海釣り!のようなアホ丸出しの生活を送っていた。それに生まれ持っての気質もあってか、中学を卒業して入学した神戸の某高校のクラスには、○○組の頭の息子、○○会の親分の二号の息子、○○組親分の娘の彼氏などややこしいやつらが10人近く在籍していた。
しかもその高校への通学路には朝鮮学校があり、最寄りの駅や近隣の公園や町の隙間で毎日のようにどこかで揉め事が「開催」されていた。否応なく私も巻き込まれて色々やらかしてしまった。
5歳から剣道を続けていた私は「あいつに長いものを持たせたらヤバイ」と言われていたらしいのだが、そんなに体格も良くはないやせ型の私には身を護る手段の選択肢は他に無く、いつでもどこでも周りの方々や自身を護る為の「使える長いもの」を探しながら歩く習性が身についてしまっている。
そりゃね、高二の若造が3人、学校帰りにひと気のない公園の隅っこで一服していたら、突如鉄パイプや材木を手にした10数人の朝鮮学校の学生から襲撃を受けたらどうしますか?(笑)  必死で逃げてまずは「長いもの」を探すでしょう。遠いあの日、アタマから瞬時に血の気が引き、反射的に体が動いた一連の動きと、3尺ほどの長さの朽ちた木を拾って壁を背中に、鉄パイプを持ち襲って来た何人かの朝鮮人の頭や顔や腕から噴き出す血は我々と同じく赤かったのは今も忘れられない。今彼らはどうしているのだろうか…とも思うが…。

自分自身や周りの人々を護るには、己が流した血の数倍を相手に流させねば勝つことはできないのだとこの時悟った。

小学生の頃からお前の考え方は「差別主義」だと言われ、親を呼び出されて「特別指導」された事もあった。その源流は私の祖父である。祖父は寡黙でいつもニコニコしていた記憶しかないのだが、私が4~5歳だったろうか、JRの某駅前に私の手をとり散歩に行った時だった。「T(私の名前)よ、ここはうちの先祖の土地や。遠慮したらあかんぞ」と言われた事を鮮明に覚えている。思春期に父や親戚に伝えられたのは、「駅前の広い土地の一角は実は我々先祖代々の土地なんだ。古来○○藩から名字帯刀を許され、本家の源流は赤具えの武家、大東亜戦争時祖父と兄弟たちが南方戦線へ出征して不在の間に三国人共が土地を奪い、当時は闇市やデンスケ賭博屋が営業し、現在は巨大な複合ビルが建ち朝鮮博打屋が営業していると言う我が家の歴史をようやく理解したのだった。
中学校の歴史の時間などに私の家の歴史を語ると、クラスに2人ほどいた在日朝鮮人がいちゃもんを付けて来た。左巻きの教師もそれらに同調し私は立派な「差別主義者」としてさらしものにされたこともあった。

お陰様で、今も私は先祖伝来の日本刀と槍を携えて、月に2~3回「巻き藁」を切りに行っている。もちろん「合法」な「居合道」である。祖父が出征していた時に、女手一つで家を守って呉れた祖母のお陰様でもある。
B-29や戦闘爆撃機グラマンなどの空襲が日を追って激しくなって来た頃には約4畳ほどの防空壕を裏庭に掘り、蔵にあった武具、刀剣、米や梅干しなどを運び込んでいたため、戦後の苦しい時代にあって何とか7人の子供達を育ててこられたと言っていたいつも和服の婆ちゃんが誇りだった。おかげ様で、私の愛刀は守られ、今も私の体の一部となって呉れている。
10数年前から某警察署の道場で、人に見立てた巻き藁に、たまには「北の電話頭」「支那の暗黒殺人鬼プーさん」、決して福島県産のホウレンソウなど口にはしないだろう2重国籍売国奴「レンホー」、最近ではローカルな小物ではあるが「糞無能サイコパスS木K子嬢」などの似顔絵や墨字などを貼り付けて、時には袈裟に、時には打ち首に、本当の一刀両断をしながら腕を磨いている。
来る「第〇次世界大戦」や世界を大動乱に陥れる何事かが起こった時に、我が先祖の土地で70数年日本人の労働者などから汚くぼろ儲けしてふしだらして来た朝鮮人共を根絶やしにするため、私や、従兄、甥や姪、は日々武道の研鑽を重ねている。
まあ、現実には敵討ち的なことはできないのだろうけども、南朝鮮の方々が言う「正しい歴史認識」の「こちら側の真実」であることは子々孫々に伝え行く歴史であると思い、全てを正直に身内や地域の子供達に伝えている。
こんな「恨」(ハン)の思いも薄れつつあったにもかかわらず、「我々は1000年恨みを忘れない」などと堂々言い放った前韓国大統領「高木クネ」は、燻っていた私達の心にガソリンを浴びせて呉れた。1000年と言えば「元寇」もあったよな。当時の日本人を捕えて手のひらに穴を空け、荒縄を通してつないでいたと言う残忍さは、やつらの言う○○大虐殺の言い掛かりとの共通点があまりにも多過ぎて笑えてくる。

神戸の某高校で日々朝鮮学校との不毛な戦いを続けていた私にはいつしか様々なお誘い、勧誘が来るようになっていた。もう時効なので書くが、マリファナや覚せい剤など身近な人間がごく当たり前のように扱っていたし、「幹部候補」として特別な待遇で迎えるからウチに来い。と言う当時その筋ではトップクラスの方も居た。
私は元より根性無しなので、「その世界の方々の卑怯さ」を動物的感覚で捉えていた。当然薬物などに手を出すことも無かった。このままズルズルと彼らと行動を共にしていると、遅かれ早かれ先祖に顔向けできない事になるだろうと思い1回目の高校を辞めた。
因みに現在消息が判明している当時の「クラスメイト」8人のうち、
1人は十数年前に刺殺され、1人は薬物で死亡。2人はある組織で出世しているが1人は10年、1人は後5年あまり社会不在。2人は未だよくわからない暗黒の中でなにかをやっているらしい。1人は薬物の影響でキチガイ天使に堕ち特殊な施設に収容されている。最後の一人は手首から足首まで「七色の素肌アロハ」なのだが、十数年前に再会した時に私の仕事を無理やり手伝わせてから後、今も建築関係の仕事を続けて呉れている。

戦後の混乱期、三国人の横暴に手を焼いていた兵庫県警は、その警備や取締りの応援を頼ったのが「三代目山口組田岡一雄親分」だった。
日々繰り返される三国人によるレイプ、強盗、ひったくり、引き込み、デンスケ賭博、ぼったくり等々を取り締まり、鉄拳制裁もあっただろうが、神戸水上警察署は田岡親分を「一日警察署長」として迎え感謝の意を表していた事実は、「そんな時代もあったんやなあ」とノスタルジックには思えるが、現代を生きるやくざ者には生きる場所さえ無いのが現実である。一日も早く「自らの現実」に気づき、生業を持って、この国の志士となって欲しいと様々に話してはいるが、現実には中々進まない。

1回目の高校を実質的に首になってから色々な仕事をやって来た。居酒屋、魚屋、酒屋、掃除屋、海の家、テキヤ、土建屋、警備会社などに身を置いた。二十歳を過ぎ、家業の工務店を継ぐのかと言う問題が降りかかって来た。兄は関西の有名大学を卒業し、某大手音楽機器メーカーに就職していたので、結局は私の腹一つであった。
この頃から何となく家業手伝いを始め、建築、特に日本の木造伝統工法、数寄屋建築の奥深さに魅了されて行った。学ぶ気満々の私に対して、父をはじめ周りの職人さんたちは酷く冷酷だった。「何も教えてくれない」のだ。職人の世界の常套、「仕事は盗んで覚えろ」の典型である。これは技術職を目指す若者の多くに共通する事なのだが、「教えてくれない師匠」に対して学ぶのには「同世代もしくは同レベルの仲間やライバル」の存在がどれほど貴重なのかを思い知った。「同じ目線で相談し合える仲間」が居なければ「成長が遅れる」と言う現実は正直焦りでもあった。そのため、父の師匠と地域で最も厳しいと言われていた親方に付いて修行させて頂いた。

そして、これからの建築業界を考えた結果、もう一度一から学ぶため高校に行こう!と決めた。 22才だった。
ありがたいことに兵庫県には夜間定時制高校に「建築科」があった。
15・6才のガキンチョたちと受けた入学試験の休憩時間には、廊下の隅で一服していた私をよくも入れて頂いたと思うが、結果的に4年間の「おっさん高校生活」の中でヤバイやつらを何人か更生に導けた………。
今思えば何をしに「恥ずかしながら高校生」をやっていたのだろう!?と思う事もあるが、複雑な家庭環境、地域の環境、家庭崩壊、非行、学習障害、ADHD、いじめ被害者等有象無象の人間を目の当たりにし、いかに全員卒業させるかと入学直後から考えていた私もまた学習障害者なのだろうと今は思っている。こんな私などを平然と受け入れ、関西でも有数の建設設計士である先生に教えを乞えた事は私にとっての最大の財産であり、古代建築から最先端の建設を4年間みっちり学ばせて頂いて、卒業後も何度も仕事をさせて頂いた。
今思うと、やくざの世界が底辺の受け皿として語られるが、定時制高校は日のあたる未来を目指す底辺の受け皿なのだろうと思う。私が居た頃は、オウム真理教信者の教師がいかがわしい事甚だしい電線まみれのヘルメットを被って勤務していた。(爆笑)多くの先生方は、全共闘崩れ、教職員組合バリバリの腐れサヨクな方々の「島流し先」でもあった。学校の駐車場では毎日の様に朝鮮ヤカラがたむろし、片や本家筋の私達が酒盛りをしていた。ベトナム人、沖縄部落民等々濃厚でチープである意味グローバルな縮図のようないい学校であった。

そして、平成7年1月17日阪神淡路大震災発災。
私の通っていた高校周辺も大きな被害を受け、その後1年半程は体育館や道場、校舎の一部も避難所として使用されていた。
私の通っていた「建築科」の生徒諸君のほとんどは工務店勤務、又は自営だったため本当に必死で関西の、神戸の復興に働き続けていた。人間に必要だとされる「衣・食・住」の「住」を支えるために。結局半年ほどはまともに学校へは通えなかった。無論災害復旧工事に携わっていたことで時間が取れなかったのだが、いたる所で遮断された道路のおかげでエゲツナイ渋滞が車やバイクで通学する学生達には大きな負担となっていた。それら各々の奮闘を知る学校側は、この時ばかりは特例として単位や成績を「忖度」してくれ、ほとんどの生徒を進級させてくれたのは本当にありがたかった。

左巻きド素人首相が自衛隊の災害派遣に躊躇していたまさにその時、燃えさかる長田の町を、灘を駆けずり回っていた時の事は生涯忘れないだろう。
そして身近で感じた自衛隊員や消防の活躍ぶりに感謝すると同時に、全国各地からの支援に「日本人としての誇り」を感じ、心の底から感謝した。
そんな「ごたがいさま」の心を送って下さる日本中方々へいつしかこの「借り」を返さねばとの思いがずっと胸につかえていた。
その後、鳥取西部地震では5日間。東日本大震災では発災1週間後に現地入りし、その時のレポを××な日々にて一部をご紹介頂いた。それから約2年半を仙台で活動し、今現在2年連続で襲われた福知山水害の復旧に関わり現在に至ります。

余計な事を書き過ぎました。どうかお許し下さい。「兵庫での選挙権が無い言い訳」を長々と書きました。すみません。
「出馬の報」に接し、現在京都に住民票がある私には一票を投じる事が出来ず忸怩たる思いで何とも言えぬ無力感も付き纏いました。
しかし、実家は明石、親戚も神戸各地、淡路、篠山等々。友人知人諸氏も豊岡から洲本まで全県に渡り数百人は居る。その中でもいわゆる「有力者」が数名…「色んな!」組織関係の上層部の方が数名…兵庫県外在住だが県内に影響力のある方が数名…神戸市役所の上の方には親戚が居るなどと、とりあえず「関係者票読み」を指を折り数えることくらいしかできない自分が居たが、とにもかくにも私にできる限りの事はさせて頂こうと、まだこの時はどこか気楽に外様での様子見でしかなかった。
それから毎晩の日課が、電話とメールになった。もともと電話や携帯メールなどは苦手であったのだが背に腹は代えられぬ。公選法のからみもあるので詳しくは書かないが、事情を話し支援と協力を仰ぐ電話やメールに精を出し、仕事先や飲食店、友人の友人などの兵庫県民と出会うたび、事情を説明し、「投票へ行って下さい」と選挙管理委員会の回し者が如く「啓蒙活動」に勤しんだ。

5月7日。「勝谷誠彦応援団」からのメールが届くはずだったのだが届かない。翌日迷惑メールフォルダを覗くとありました。
ボランティア説明会の案内メールだった。
今からどう頑張っても説明会には行けそうもない。
私は工務店と店舗設計・コーディネート業、たまに河豚調理応援事業(笑)(いわゆる助板)などをやらせて頂いているのだが、7月後半から8月後半までは基本的に休業状態にできる様に1年の仕事を回している。昨今の酷暑は決してアホの一つ覚えのように口々に語られる「温暖化の影響」では無いが、海水温の異常に伴う酷暑が続いているのは事実で。仕事の効率も上がらず、時には生命の危険にもさらされるため、この時期に依頼される仕事はできる限り先延ばしにして頂くか、断るか、私と応援部隊で受けるか…と言う体制で動いている。そのため例年4~6月は年末に匹敵するくらい忙しい。
しかしまあ、私ごときが行かなくともあの勝谷誠彦氏である。側近には安曇野の軍師高橋ヨロン氏、天才マネージャーT-1君ことタイチさんが付いている。全国各地からのボランティアさんも集結しているだろう…。と説明会には行かなかった。

5月11日の日付が変わろうとする23時40分。「応援団」からのメール。
13日の事務所開きのお手伝いを募るメールだった。翌14日には丹波方面での演説ツアーのボランティア募集も記載されていた。
13日はとても無理なので、14日の丹波講演会だけでも手伝いに行ければとヨロンさんにメールを入れた所、「助かります」といった返信メールを頂いたのが12日の午前8時過ぎ。私は早朝から仕事先だったので正午過ぎにメールを読み、そこから丹波、篠山近郊の友人諸氏に電話、メールを入れ、地域の問題点などのリサーチをはじめた。勝谷さんの地域密着講演会の資料、講演会のネタとして使って頂ければと、仕事から帰宅後のほとんどの時間を使い十数枚の資料をまとめた。

14日、午前10時頃まで仕事をしたのち、若い衆に頭を下げて講演会へ向かった。
タイチさんは数年前に赤坂で出会っていたので、私自身は認識していたが、ヨロンさんをはじめ、スタッフの方々の誰の顔も知らなかったので何とも言えぬ不安の中会場周辺をウロウロと。また会場の確認を管理者の方と話しながらご一行の到着を待った。

開演の約90分前会場前の駐車場に横浜ナンバーのハッチバックが滑り込んで来た。
勝谷さんとヨロンさんと思しき方が降りてきた。
「お疲れ様です」と入口でお迎えするも、日ごろから愛用している旭日旗のTシャツを着た只でさえ人相の悪い怪しい私との「間合い」をとられるのが可笑しかった。私自身が反対の立場だとすると同じ行動をしていただろうと。(笑)
時間を置かず機材車?確団車?だったのかも…が到着し、幟の設置、受付などの設営をしていると、懐かしい顔が現れた。タイチさんであった。
私にとってはちょうど4年ぶりの再会であったが、私のような怪しい人間と4年も前に出会ったことなど多忙なタイチさんが記憶している訳もなく、設営しながら身元確認がてら、手短に色々な話をした。
この丹波ツアーは記憶している限りでは、タイチさんの旧友、愛すべき池っちをはじめスタッフと思しき方々が7~8人はおられたので、私など出る幕も無かったのだが、とりあえず出来る事は手伝った。
講演会が始まり、初めて聞く高橋ヨロンさんの都会的で重みのある声に聞き入った。
今まで××な日々での「文字」でしか知らなかったヨロンさんは、想像していたよりもずっと大きく優しく感じられた。
しばらくすると、「舞台の目の前の席で不規則発言を繰り返す方がいる」とスタッフが楽屋に駆け込んで来た。私は何気なくその人物に3歩で歩み寄れる位置に立ちながら様子をうかがうと共に、来場者の動きを見つめていた。
盛況のうちに無事講演会は終了。途中お若いご夫婦が「朝鮮学校への補助金をどう考えているのか!?」との質問があったが、いつもの「キレ」のある明確な答えを直球で返した勝谷さんに会場が拍手に沸いた。が、最後列周辺に座っていた数名はピクリともせず、ある人はメモを取るのに必死、ある人は憮然としている方々から私は目を離す事が出来ず、気付けば車のナンバーをメモっている私がいた。

これだけのボリュームのスタッフが揃っていれば撤収などはアッと言う間に終わり、一行は篠山講演会へと向かって行った。
私はすぐに仕事場に戻り、若い衆を帰らせた後残った仕事を片付けた。

これが私にとって「兵庫義の闘い」の初陣であった。
そして、これほどの数のスタッフが揃っているならば、片田舎暮らしの私などがしゃしゃり出る事はないだろうと思ったのだった。

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