兵庫 義の闘い vol.3

vol.3

5月28日日曜日、姫路のホテル。
7時半フロント集合。神崎郡市川町の会場へ向かう。約25キロ、40分ほどの移動。

播但道、市川南ICから見える市川町文化センター到着。

コンクリート打ちっぱなしの近代的で巨大な施設が田園風景に囲まれた小さな集落で異彩を放っている。施設の駐車場が8割方満車!!なのを見てホンマかいな!?と若干テンションが上がったのだが、数分後に「ああ、日曜日の田舎あるある」やなぁと少々残念だった。
施設の搬入路である裏口に車を停め、備品の搬入、幟の設置と皆イベント屋を超越し、ドさ回りの劇団スタッフが如く何役もこなしながら動いて行く。

施設管理者の方と打ち合わせがてら話しながらまず私が聞いたのは、この施設「安藤忠雄」ですか?と言うことだった。施設の方は「いや違うんです。よく同じことを聞かれるんですが」との話しで、色々と業界の内情を知る私はなんだか急にこの施設に「愛着」を覚えるのだった。(笑)

あくまで、あくまで私の経験を元に、安藤忠雄に脱線させていただく。
安藤氏が名を売った仕事で「住吉の長屋」という民家がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%B1%8B

この民家で生活するには、雨の日は傘をさしてトイレに行かなくてはいけない。それを風流と言う方もいるだろうし、何より施主が納得していれば誰が何を言おうがかまわないのだが、建築の勉強を始めたころにこの民家の図面や資料を読んだ私は「このおっさん人の金で遊んでやがる!!」と感じたものだ。
実際、建築屋、設計屋からすれば「どんな形にも作れ、強度も申し分ないコンクリート造」は魅力的なのだが、実際に生身の人間の生活を思いながら設計をすると、どうしようもない違和感がつきまとう。この安藤氏が設計した建築現場を何度か実際に経験した私から言わせると、やはり「人の金で遊んでいる人」以外の表現は見つからない。現実に現職井戸知事、前兵庫県知事時代にどれほどの安藤建築が兵庫県中に建てられているか!!!神戸市内にどれほどの安藤建築が建てられたのか!!県、市の部局、ゼネコン、安藤事務所と、現実に「ズブズブズブズブ!!」の関係である。
県、市職員は天下り先に困らない、安藤は仕事に困らない、ゼネコンは各々の間をつないで口を開けていれば税金がしこたま入って来る。おかげで安藤氏昵懇の竹中工務店などは、倒産寸前だったのが、日本国民、兵庫県民の莫大な税金のおかげで息を吹き返している。
そりゃ、先の兵庫県知事選挙において即座に井戸候補に推薦状を出すあんどうだだおやゼネコン各社などは利権談合共産主義を謳歌する盗人商売人でしかないのが真実である。
クソッ!!当選していたら、全て白日の下に晒し、16年以上の悪事の解明が出来たのに・・・。
また本当の事を書いてしまった。

現場で実際に見聞きしたものを書き出すとキリが無いのでもう止めるが、私達の身内で言う「だんご屋」意味する所は「談合屋(ゼネコン関係者)」共と、取り巻く役人や安藤など関係者の悪しき阿吽の呼吸は反吐が出る事実だが、本題へ戻る。

この施設がいいのは前面道路に接する敷地に建物が一切ないことだ。テニスコート3面分ほどもある芝生が広がり、祭りやイベントなどにも広く活用されているのだろう。抜けた快晴の空の下で、駐車場の入り口まで幟を立てに行くと、人がわんさと集まっている。道向かいの学校の校庭に防火装束の男達が有に百数十人は集まっている。消防団の訓練だった。
駐車場が盛況なはずだ。
設営は完璧。施設内にある図書館にも子供連れのお母さんたちがちらほらと来館しはじめる。が、まだ開演時間には時間がある。あらためて見ると、受付の備品は全て何某かの段ボールに放り込まれて移動している。すぐ隣にはホームセンターがあるのを見つけ、タイチさんに相談した。備品を区別整理するコンテナを買って来てもいいですかね?と。さすが百戦錬磨のスーパー仕事師、即答でお願いします。と。
とぼとぼと250mほどを歩いて、セール品のパッケージコンテナを購入した。

掃除も行き届き、快適なホールに続々と人々が入って行く。事前告知で整理券云々の記述があったため、クレームが寄せられた。一方駐車場で声を掛けられた消防団の方々からは、「残念や!行きたかったのに」「なんで消防に駆り出される今日にしたんや?」「なんでわざわざ今日みたいな日にしたん?」などと言われてしまった。返す言葉も無い。こちらの選対には各地域の細やかな情報も、人脈も協力者も何も無いのだから。
音響も素晴らしく包み込まれるようなホールでの講演会も無事終了。
素早く撤収の後、移動。

35キロ弱、約1時間弱の移動の後JR加古川駅到着。

身長190㎝近くはあろう支援者?協力者と顔を合わす。私は彼がどこの何者かも誰からも知らせて頂いていなかったが、まあ、なんとなく挨拶した。が、この大男の眼は死んでいた。人を人とも思わず見下す眼をしていた。態度も横柄。かき集めたのだろう数人の若者は愛想は良かったが、手渡すチラシに通りすぎる一般市民の方々のほとんどが避けて通るほど、あまりに「無教養」に見えていた。

後々耳にしたがこの大男(どうでもいいので名前も知らないが(爆笑))元県議会議員だったらしい。己の不始末か何か知らないが、民主党(民進党)から棄てられて現在無職・・のような人間だった。私の心の中では「あぁ、こんな人の心も分からないようなヤツに税金を浪費しドブに捨てないように投票した加古川市民は立派なもんだ」と正直思った。(実際当選した、ヤツの対抗馬も恐らくは団栗の背比べなのだろうが・・・)(苦笑)
ともあれ、どこぞの人脈を介して協力してくれてはいるのだが、私が感じたのは我欲の上で寄って来た「オノレの就職活動の一環」丸出し。案内してくれた演説先なども「俺でも分かるわい」程度でしかなく、後々加古川周辺の友人諸氏に聞いた所では、「あんな評判の悪い何もしてくれない、女ぐせも極めて悪い議員クズの応援を受けただけでイメージは下がるだけ」と言われてしまった。なんであんなのを巻き込んだの?と。「すまんオイラエライ人ではないので詳細は知らんねん」と答えるしかなかった。

ついでに、旧知の県議会議員にも聞いてみたが、この場では書かないでおこう。
あらためて、痴呆議員の劣化の現実を目の当たりにさせて頂いた。
加古川周辺にお住いの方々におかれては、これよりも良識ある民度をたもって頂きたいと強く思う次第であります。

そんな大男の先導で加古川市内を街宣する。
移動の車中、「あの大男眼が死んどるしどうにも心が感じられへんわ」と、つい本音を呟いてしまったら、隣に座っていたM子嬢が「私も同じこと感じました」と話し出すではないか。毛唐の言語を駆使しながら米国と日本を行き来し学んでいる才女が片田舎の野武士のようなおっさんと同じような感覚をもっていて呉れていることがなんだか嬉しかった。きっと、義信ある真っ直ぐでバランスのとれた素敵な親御さんのもとで育ったのだろうと想像した。と同時に、もしもあの時あの子が産まれていれば彼女と同級生であることを思うと、何か奥底の心を掻きむしられるような思いがした。
その夜、折角のいい機会と、せめてもの思いを込めてホテルの狭い浴槽で、覚えているお経の一節と共にお水をいただいた。

本体が加古川市役所周辺で開催されていたイベントにモモタロウに行った後、タイチさんの指令のもと、A川さんと共に今夜の1000人大バコ講演会の告知街宣に走り出した。慣れぬ、いや久々のウグイスにA川さんは一生懸命話していた。時々コケそうになるような愛すべきフレーズや言い間違いを笑い合いながらチェックしながら数時間に渡り地域を周った。

JR加古川駅頭にはじまり、ショッピングセンタ-などでスポット演説をはさみながら、市内を周った後17時半加古川市民会館に集合。動線を確認したのち、応援のボラさんも駆けつけて頂いて手際よく設営を進める。受付の設営をしていると、西日本出版社のU山さんご一行が到着。物販のテーブルが追加され、勝谷さんの書籍が並び、POPが賑やかで味気ない受付が華やかになった。そんないい雰囲気ではあったが、この会館のルールでは、会場内での商行為については売り上げに応じて上納金を納めねばならないとの事。書籍の利益など微々たるものにも関わらず、まさに大名商売でテラ銭を要求する役人仕事ぶりにはいかがなものかと思ったが、とにもかくにもU山さんには申し訳ない気分だった。

講演会はと言うと満席までは及ばなかったが、とてもいい雰囲気だった。
例の如く手分けしながら全力で撤収し終えた。タイチさんは会館事務所でめんどくさい清算に付き合わされていた。

25キロ、約40分走り昨夜と同じ姫路のホテル到着。
昨夜同様チェックインの後すぐに集合。昨夜と同じ居酒屋さんへ向かう。
https://tabelog.com/hyogo/A2805/A280501/28047282/dtlmap/

昨夜に輪をかけて、とてもでは無いが世間では言えない、聞いてはいけないようなディープで危ない話の応酬に、つい私もいろいろと知る真実の情報を話してしまった。
明日も旅は続く。日付が変わる頃にそそくさと宿へ戻る。
5月29日月曜日。8時集合の後、宿から10分少々走った所にある姫路市文化センタ-へ向かう。大ホールである。1600人あまりを収容できる。
広い!。搬入路からの動線が長い!!。
みんなで協力しながら搬入、設営をこなして行く。ホールスタッフの方々が実に協力的で親切にフォローしてくれてとても助かった。彼らの様な「縁の下」の方々の話しや行動、ちょっとした心遣いを見ていると、その施設の考え方や「上の人」のレベルがよくわかる。様々な施設を巡っていると、施設スタッフの言、行動は「施設の民度」を図る上でのバロメーターとして実に分かりやすく教えてくれるのだった。

開演まで1時間ほどもあると言うのに、入り口のガラス戸前には人が集まり始めていた。
おお!姫路の方々は「熱いのかも」と期待が膨らんでいった。
午前9時過ぎには入場受け付けを始める。10時の開演時間には1階席の半分弱の席が埋まっていた。
少し勝谷さんの声がかすれていたのが気になる。若干元気がない。
45分近くはライブで話し続けるため、精神的にも体力的にも「キツイのだろうな」とは一目瞭然だが、毎回毎回脳内麻薬の作用もあってか、熱を帯びた思いのたけを聴衆に語り掛けていた。
聴衆の反応も良く、無事に終了。手際よく撤収し備品を積み込んだ後次の会場へ移動。

神崎郡福崎町の会場へ25キロ、40分ほどの移動。
3年ほど前まで福崎には材木市場があったので数えきれないほど来ていたが、さすがにこのホールまでは知らなかった。
福崎町エルデホール。街はずれの住宅地に建つこぢんまりした比較的新しい施設だ。立派な座席も既設済み。ありがたい。

受け付け、ステージ看板、幟の設置に精を出す。外の幟を設置していると、隣の建物の入り口で我が陣営の青と白の幟を組み立てている方が見えた。どうも組み立て方を間違っているようだったので、お節介をやきに行く。一度バラして最初から組み立てる。作業しながら色々と話して頂いた。町の衰退、過疎化、町おこし等々。様々な問題を勝谷さんに届けてほしいと言う熱が伝わって来た。そして「私有名人と会うのはじめて」とおっしゃったので、「後であいさつに行ってもいいですか?」と聞いたところ、どうぞ来てくださいと言う事で、講演終了後勝谷さんとご挨拶に伺った。
ちなみに組み立て終わった幟は色合いが全く同じなかもめーるの販促幟だった。

タイチさんが買って来てくれた弁当をかきこんだらもう開場の時間。ざっと100名弱の参集者だった。圧倒的に高齢者の方が多い。やはり新聞折り込みでの告知の結果だろう。
ホームページやTwitter、FacebookなどのSNSでは情報発信、告知はしているが、興味のある人は見るのだろうが、無関心な若い世代の人々へ浸透させるのは至難の業なのだろうと考えさせられた。

会場の客席の後ろには、スタッフが移動する細い廊下があって、客席全体を見渡せる。そこで写真を撮っていたのだが、最後尾に座っていた70代前半と思しきおじさんが、ずっとスマホでエロ動画を熱心に見ているのが否応にも目に入ってきた。最近の老齢世代は元気なのだなぁと、なんだかエエ加減に…と複雑な思いがした。
無事講演会は終了。入り口で皆さんをお見送り。熱い期待の声がかかり、写真撮影と勝谷さんはモテモテだった。先ほどのお隣の商工会の事務所へ挨拶に伺い、撤収、積み込みを終え、いざ移動となった時に、タイチさんが「車の鍵が無い!」と焦り出した。これはヤバイ!と会場内、楽屋、手荷物と心当たりを全員で捜索するもどこにも無い。これは荷物に紛れ込んだとしか考えられないと言う事で、積み込んだ備品を下ろし、確認してゆく。20分ほどの大捜索の結果、受け付け備品の箱の中で発見。無事移動できたのだった。

私はこの時の顛末を目の当たりにしたので、次の講演会ツアーの間に、首からぶら下げられるキーホルダーを買って、各車の鍵に付けて回った。車が増えるたびにも勝手に無理やり(笑)追加した。これさえ付けていれば各ドライバーは降車時に自然と首からぶら下げるのだ。周りから見てもドライバーは一目瞭然で、ドライバーを探す手間も無くなり、これ以後鍵紛失騒動は皆無だった。

折角の福崎!なので、移動の途中で妖怪を見に行った。(実際は河童)会場から10分ほどにある辻川山公園に向かう。
http://www.fukusaki-tabigaku.jp/kankou/kappa.html

福崎は民俗学者柳田国男先生の出身地で、氏の著書に出て来る河童をモチーフに作られた河童のガジロウが15分ほどの間隔で池から登場する。私が数年前に知った時にはガジロウ1匹だったのだが、子河童2匹を従えて登場した。

池の上の方には逆さ吊りの天狗が滑降しているし、ベンチには何やらパソコンで検索している天狗が座っている。いずれもよく出来ていて、ウィットにとんでいる。勝谷さんと妖怪たちの写真を撮りまくり、スタッフみんなが思い思いの撮影会でしばし息抜き。私個人的には隣接する茅葺きの家、柳田国男先生の生家に行きたくてたまらなかったのだがグッと我慢し(笑)先を急いだ。

 

朝来会場へ移動。60キロ弱、1時間半の移動。
朝来市さんとう緑風ホール。
市役所支所に隣接する2階ホール。結構年季の入った会場だった。
到着後まず、これも年季の入ったパイプ椅子を並べて行く。タイチさんとステージ看板を設置していると、日章旗があったのでステージ看板の下に設置した。受け付けの設営も完了。確団車を国道沿いの目立つ駐車位置まで移動させ、幟を立て、照明を入れる。田舎道には否応なく目立っていた。
この会場でも高齢者の方を中心に、100名弱の参集者が来場してくれた。
トークも絶好調で会場も盛り上がっていた。そんな中1階ロビーの隅でタイチさんが数十枚の資料を広げ、パソコンとスマホで独り格闘していた。
次の会場、次の次の・・・・と先々の講演会場を押さえる闘いを続けていた。
白黒の兵庫県地図を七色に塗りつぶして行くために。

このホールの舞台袖には立派なグランドピアノが埃をかぶっていた。施設管理者に確認すると使っても構わないとの事で、講演終了時、勝谷さんは舞台袖に駆け込んで「ふるさと」を演奏した。ステージ上には誰もいないがピアノの音と来場者の歌声だけが会場に響いているという、とてもシュールな時間だった。
ピアノの音が聞こえ出すとそそくさと帰って行く数人のおっさんがいたが、あちら陣営の方々なのだろう。
講演会は盛況のうちに終了。勝谷さんは入り口で次々に撮影に応じ、皆さんとの固い握手でお見送りする。時折勝谷さんの著作にサインを求められるのは見ているこちらも何か嬉しくなって来る。
椅子の片付けと撤収をキビキビと終えたのは、日もとっぷり暮れた21時前になっていた。この日帰宅予定だった私は、もう電車が無いことに気づいた。まあ近所の安宿にでも泊まろうか、神戸まで一緒に帰るかと思案していたのだが、Sさんの家ここから近いじゃない。とヨロンさんがナビを触りながら言ってくれた。そんな遠回りでも無いじゃんと。そうなのだ、この朝来から30キロほど車で走ると現在の自宅だ。俺が送って行くよとヨロン号に乗せて頂いたので助かった。

車中では、ヨロンさん世代ど真ん中のjourneyなどをセレクトしてくれて音楽談義に花が咲いた。(笑) しばらく走る間に講演前後の動きの中で対応できなかった自身のスマホを確認すると、着信があったので折り返しの電話を入れる。すると、通常の呼び出し音が“プルルルル”のような電子音?ベープ音では無く、「♪ふーけーば飛ぶような将棋の駒に~♪」と野太い村田英雄の名曲が電話から聞こえてきた。しばらく発信するも応答はなかった。その時私の頭の中では、なぜだか、小学生の頃私の父が持っていた村田英雄のLP(もう死語かもしれないが(笑))のジャケットが思い浮かんでいた。LPジャケットの右寄りに村田英雄が薄緑の着物を着て立っているジャケットだ。なんだか懐かしさに心を緩ませてもらった。しばらく走っていると電話が鳴り、「T垣です」とさらに野太い侠の声が聞こえてきた。先日、何卒勝谷さんを応援して頂きたいとの旨のご連絡を差し上げていた私へご連絡を頂いた。「私に出来る事があれば全面的に協力させて頂く」とのお話しを頂いた。私などの凡人からすれば畏れ多い大先輩からの熱いエールを頂いたので心底、ありがたく嬉しかった。これよりT垣先輩は各方面で獅子奮迅の活動を続けて頂いた。(泣)

私の友人たちが蕎麦を育てている夜久野を過ぎ、15分ほど走ると私の住む地域に到着。ヨロンさんには、その先の道路情報や取締り状況、兵庫県警がドル箱としている舞鶴道、阪神高速北神戸線などのリアルな情報をお伝えし、見送ったのだった。

そして、このドライブをきっかけに、私は帰宅後すぐに作業をはじめ、後々しょうもない騒ぎを起こすことになる。。。。。

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