兵庫 義の闘い vol.4
vol.4
兵庫県の「東北」である朝来市の講演会終わりに、ヨロンさんに遠回りして送っていただいて、3日ぶりに自宅へ帰ることが出来た。
部屋に入りまずはベランダに向かった。地元の方々から頂いた色々な野菜たちが気になっていた。この3日間1滴の雨も無く全ての植物が力なくしなだれていた。ほぼ全滅。の状態だったが、すまんなと、とりあえずジャブジャブと水をあげていった。
旅の荷物を開け、シャワーを済ませ洗濯する。
そして、タイチさんとの確団車、ヨロン号での移動の中で感じたのは「音の枯渇」だった。移動距離が長く、車中の時間も長いため、私なりの「音」の差し入れをしようと、内職が如くCDを焼いて行った。
若い頃、某FM局で少しだけ仕事をしていた関係もあり、今も実家には段ボール10数箱のCDが眠っている。海の家をやっていた時も、友人のDJ達といろんなイベントもやって来ていた。時には海の家にサプライズゲストで某有名ミュージシャンK,Tなどが来てくれたり、私は別にどうでもいいのだが、(>_<) ややこしい方々が呼んで来たIきK1などがわざとらしくジェットスキーに乗って直接砂浜に登場みたいな、今思えばアホ丸出しないかがわしい海水浴場にあっても、当時関西を中心に活動していたセンスあるDJ達のリミクシングによる名曲の数々がこの海水浴場では異彩を放っていた。これらの音楽に吸い寄せられるように、当時はまだ下積みのミュージシャンやクリエイターなどと多く出会ったものだ。
いざ手元にある音源を確認するも、なんとも寂しい。東日本大震災以後ゆっくり実家に帰れたことが無いので当然である。まあ、とりあえず手元の音源をと、あらためて調べて行くと面白いCDが出て来た。FMの仕事をしていた時に、新人のDJに虎の巻として渡していた音源だった。
8枚のディスクの中に、様々なジャンルの名曲、名曲と言っても「誰でも知っているわけではない」名曲を網羅したディスクがあった。
実際に、新人DJが2クールこのCDだけで番組をやり終えたこともあったので、そこそこのボリュームはあるだろうと、せっせと焼いていった。勝谷さんやタイチさんの思想に近いであろうヤバい音源や、かくれた名アルバムとして間違いないアルバムなど30枚ほどを焼いて行った。ヨロン号と確団車用に半分づつケースに入れ、お中元で頂くそうめんの箱ほどの大きさの段ボール箱に詰めて三宮松屋フラワーロード事務所へ送ったのだった。
事務所で受け取ったタイチさんは、あの怪しいSさんが何かを送り付けて来た!!しかも荷物のサイズが「ちょうどプラスティック爆弾が入りそうな大きさ」だなんだと不審物扱いされて好きなようにからかわれて騒ぎにしていたそうだ。
この場をお借りして、私はテロリストなどではないことを今更ながら宣言しておく。(笑)
翌日、翌々日としこたまたまった仕事を片付け、負担をかけていた若い衆と晩飯に行った。
そして5月31日午前電話が鳴った。タイチさんであった。6月2日から始まるロングツアーの話しであった。タイチさん以外に男手が無いとの事で…。
昼飯を食べながら恐る恐る若い衆に話し出すと、「もう分かってますよ俺らのぶんまで頑張って来て下さい」と。「その代わりいつでも電話だけは頼みますよ」と。
泣きそうになったがグッとこらえた。
世論社に怒られそうだが、昼飯の時に読む××な日々を若い衆2人は楽しみにしている。彼らも心中では立派な読者なのだ。いずれ「もう朝読んできましたよ」と言う日が来るだろうから、世論社にはお見逃し頂きたい。。
その日の夜から明石、淡路、小野、加西周辺に住む友人知人親戚などに電話を入れ、地元の情報収集を始める。同時に関連する情報をネットで調べ、20枚ほどの資料を作成した。講演のネタやツカミになって呉れればと。
6月1日、早朝から仕事をこなし、16時過ぎに仕事を片付け、明石へ向かう。
話しには聞いていたが、久々の明石駅前の風景は激変していた。長年の問題だった駅前の再開発が相当進んでいた。
もう18時を過ぎていたので、ゆっくり街を見る間も無く、実家に立ち寄る事も出来なかった。
18時半頃に何とか会場に到着できた。
明石市民会館大ホール。19時開演であった。
既に設営はほとんど終わり、スタッフも顔見知りが多かった。続々と人も集まって来ていた。聴衆の中にも友人知人が多数いた。中には市会議員や落選組の怪しげな人間も混じっていた。地元の後輩達が連れ立って来てくれていて背後から挨拶されて驚いた。
ここではじめて超怪しい人物を目撃する事となった。この人物は後々、次々と問題を起してくれることとなった。
私が言うのも何なのだが、講演は実によかった。何より勝谷さんが元気だった。聴衆者はホールの規模から言って若干寂しかったが、地元の人間からすれば「立地」の問題だと思った。何もない街はずれに建つこのホールに来るには車しかない。今は駅前に立派なホールが出来ているのでそちらならばもっと人は入ったのかと思ったが、そう言う地元情報のやりとりすら事前に出来なかったのが残念でならないが、あの時の状況では致し方はない。
いつものようにとっとと撤収、積み込みを終え、20時半過ぎに出発。
勝谷グランドツアー初の「海外」淡路島へひた走る。本州側のきらめく夜景を背に明石海峡大橋を渡り約60キロ、1時間半ほどの行程。
淡路市のホテル到着。22時をまわっていた。コンビニ以外もうすでに開いている店が見当たらないほど、やはり地方だった。フロントに教えてもらったチェーン居酒屋に向かう。私達以外に客は無し。だだっ広い店に店長とバイト1人。食のモノ書きである勝谷氏は、「わざわざ魚介や産物が豊富にある淡路まで来ているのに冷凍物の刺身を食っているつらさよ」などと言いながら兎にも角にも腹ごしらえをした。
実は、私の母方の実家が近くにあるのでそちらに案内して、余りかえっている猪肉や、獲れたての無農薬野菜、親戚の漁師が届けてくれる極上の瀬戸内の魚介を味わって頂き、ちょうどベストタイミングな時期だったので、田舎の裏の森に数えきれない数の「ヒメ蛍」が乱舞する光景を見て頂きたいとも考えていたが、時間が時間ということもあり断念した。
そそくさとタクシーでホテルへ戻る。ホテルのエントランス脇の灰皿の前で一服していると、今日初めて会った同行者が近寄って来た。それこそさっきの居酒屋で初めて会話しただけなので、この人間がどういう人なのかも知らなかったし興味も無かった。くわえタバコでやけに馴れ馴れしく話しかけられたが、話す内容と言えば「私が何者なのかを執拗に質問され」、その後はと言えば自分が昔「さんまのから騒ぎ」か何かに出たことがあると言う自慢話。タバコを吸い終わる頃には「私の選挙に協力してもらうために来ているから“邪魔だけはしないでね”」と言われ言葉を失った。
私の心の中は「なんじゃ!コイツ!?糞やん」であった。
この兵庫の闘いの中で出会った数多の人々の中で、いや、私の生きて来た時間の中でも突出したクズの化けの皮が剥がれて行く最初の出会いであった。
元来私はテレビなどでよく観ているのは、決して最新のものでは無い(笑)ミュージシャンのライブだとか、その道のプロたる落語番組(くだらぬ芸人崩れの暇つぶしダジャレ番組笑点は含まない)であるとか、報道番組、NジオグラフィックTVであるとかと、文字通り能がある芸は好きだが、探偵ナイトスクープなどを除いて、「素人がフシダラを自慢し合う」ような素人番組を昔から軽蔑していた。さんま何某と言う番組もまともに見たことは無い。
しかし、偶然ではあるが、さんま何某と言う番組に出ていた事のある女性と一時期共に過ごしたことがある。
番組に出る経緯は後々聞いたのだが、まあ、とんでもない妬み嫉妬嫉みと足の引っ張り合いに加え、周りを貶め合う異常なほどの妨害行為や嘘の情報の嵐の中で、その女性はすぐにオファーを断ったのだそうだ。
彼女から聞いたテレビ画面上以外での環境は「修学旅行で見た地獄絵図がマンガに見えるほど、陰湿で陰険で嘘が嘘で無くなる環境に、人が信じられなくなった」と言っていた。そんなヘドロの中を生き抜いてきたと自慢気に語る人間の汚れ具合は、国際売春婦K姉妹のそれと汚さを争う領域なのだろうと感じてしまった。
そんな私の人脈や経験などつゆも知らず、「只の御しやすいアホな勝谷ファン」と値踏みをお付けになったようで、唯一の自慢話であるのだろうさんま番組を語り、小池塾に参加したが箸にも棒にもかからなかったが、全国におともだちのネットワークができたと自慢し、次の選挙では絶対に勝つのだと言うムシ暑い我欲を押し付けて来るS木K子と言うゴミを前にして私は、気の毒なクズやなぁ、ただの税金泥棒予備軍やん。と、できるだけ関わらないでおこうと思ったものだ。
「オノレの泥棒就職活動に義の闘いを利用し、その中から協力者や支援者を捕まえたい」また「勝谷氏を取り込んでオノレの選挙に利用したい」と言う「義」の対極である「利と我欲」しか持ち合わせていないクズを目の当たりにして、私などただの凡人ではあるが、勝谷事務所及び全国から「義」の旗印のもと参集して頂いている読者の方々の御為にも「ニイタカヤマノボレ」とばかりに目の前の汚物に関してできる限りの情報収集を開始したのだった。