兵庫 義の闘い vol.8
Vol.8
6月12日、一旦帰宅して若い衆たちと話し合った。
勝谷事務所に集結しておられる「読者」の方々はみなさん素晴らしい方ばかりだった。そして私がお話ししたほぼ全ての方は「さるさる日記」の頃からの読者だった。人相の悪い私に話しかけるのは勇気がいった!!とお話し下さる方も、2~3分話せばすぐに意思疎通が出来る感覚を覚えさせてくれたのは、やはり「古くからの読者」の共通点でもあった。その日まで全くの見知らぬ人であったのだが、既に十数年に渡り「毎日の様に同じ文章を読み続けていた」結果、どこか奥底の倫理観と言おうか価値観と言おうか、言い知れぬ信頼感が感じられて不思議な感覚だった。
それは私の感覚であって、ヤバそうな私に対して皆さんは不信でしか無かったのだろうとは思うが。(笑)
細かな個性は置いておいて、本当に皆さん良い方ばかりで、こんな人ばかりの会社や社会ならばもっと伸びるだろうし楽しいだろうなぁ~。。と思ったものだ。
しかし、実は私はこの頃から不安で仕方がなかった。
勝谷陣営の参謀、ヨロンさんとタイチさんは、まるで劇画のごとく日々の業務に忙殺いや“猛殺”され、全体のフォローや細かな指示系統があいまいになっていた。
ムスリムM田さんは様々な担当を丸投げされて頭を抱えている。ジェシーK埼さんも半ばムリクリなシフトを組まざるを得なくなっていた。
ボランティア選挙の難しいところである。上下関係があいまいで、指示を出す旗振り役やまとめ役がこの段階ではまともに決まっていなかった。
特に「読者」の方々は長年の「英才教育」が行き届き過ぎていて(笑)、私を除いて!皆紳士的で、思慮深く、遠慮がちに動いておられた。
そんな中自分勝手に指示や判断、主張を押し付けながら船頭を気取り出していたのが し〇きけ〇こカオナシパンパンマダニだった。
神戸講演会の頃から明らかに身勝手な振る舞いが目につくようになっていた。候補者ご本人さんへのアプローチや粘着度も日を追って醜いものとなって行っていた。
私は、このままやとカオナシパンパンマダニに「ワヤ」にされてしまうとの危機感に思い悩み胃が痛い日々が続いていた。
その様な兵庫の現状であることを若い衆達と話し合い、思い切って「最後まで」参戦する事を決意した。
若い衆は「なんとかこっちは踏ん張るので、兵庫でとことんやってきてください」と送り出してくれた。
一般に常識的な統計では、私の寿命があと30年余り。日常の不摂生を差し引いてもまあ20年ほどは残っているのだろう。その時間のたかだか1ヶ月あまり。
“義を見てせざるは勇無きなり”の論語が頭の中でリフレインし、“触らぬパンパンマダニに祟りなし”と言う対義の言葉に背中を蹴られて、一兵卒としてヨロン参謀総長、タイチ参謀長に志願したのだった。
東北、福知山等の最前線で「人的被害」によって、決して少なくないダメージを負っていた私にとって、1ヶ月の収益は粗末に出来るものでは無かったが、目の前の「私利」によって「一生の後悔」を背負う事など私には「拷問」でしかなかった。
(これ以後、日時が前後、またあいまいな記述もあるでしょうが、あまりの忙しさと日にちの感覚が無くなるほどの目まぐるしい日々だったので、大きなお心でお読み頂けると幸いです。)
6月14日午後、勝谷事務所へ向かう。
事務所では大量の「義」Tシャツの仕分けで四苦八苦しながらA川さんが格闘していた。私はダッシュで三宮周辺の100均ショップを何件か回り、1円玉サイズほどの4色のシールとS.M.L.XLのハンコを買って、せっせとシールをTシャツの包装に張り、誰もが一目瞭然で対応できるようにサイズ分けしていった。今思えばパソコンで打ち出したシールをカットして貼ればよかったと思うが、この時はまだ事務所の設備やPCなども使い慣れていなかったので、実にアナログな対応をしてしまった。
上記したが、とにかく様々な雑用相談が私には押し寄せて来ていたので、正確な日時はご勘弁頂きたいが、この日も事務所の幟の追加や、1階、3階4階の整理やメンテを様々に片付けていた。
政見放送の収録に行っていた勝谷さんご一行が事務所に戻って来た。
二言ほど話しただけで、「この人仕事出来る人や!!」と一瞬で感じさせる美しいスタイリストの方が颯爽と去って行き、勝谷さんはどこに飲みに行こうかとヨロンさんを口説きながらスーツを脱いで着替えていた。
トイレから戻って来た勝谷さんが「Sさん!!お願い!!トイレ何とかしてくれない!??」と言って来た。
勝谷事務所として使わせて頂いている松屋事務所ビルは、過去に様々な政治家の選挙事務所として使われて来ていた。先日ビルオーナーと話す機会があったのだが、オーナー曰く「思想信条に合わない候補者には一切貸して来なかった」と胸を張っておられた。
しかしそのビルも老朽化し、立て替えの時期にあるため、ほとんど放置されていたので、設備の痛み、不備は顕著だった。
“生きた”トイレは2階にしか無く、しかもタイル張りの和式と男子便器。現在のトイレ環境を考えれば劣悪でしかない。
直ちに仲間の設備屋に連絡し対策を練った。誰でもお分かり頂けるだろうが、和式から洋式トイレへの切り替えには斫り(ハツリ)工事が必要となり、配管、電気配線等を含めると少なくとも10数万円と2日は掛かる。更に基本として電気関係をチェックしたが、長年改造に改造を重ね複雑怪奇な多数の配電盤など、名探偵コナン君が謎解きしたとしても、少なくとも数日~1週間は掛かるであろう難解さを呈していた。
そんな現状と、わずか1ヶ月の使用期間を鑑みると私にはあまりに「もったいない工事」と思え、「簡易設備」で対応するしかないと、つぶさに勝谷さんに報告した。
勝谷さんは「そうか・・・仕方ないね」。と言う事で、介護用品分野の簡易便器を即座に発注した。
事務所のパソコンの前ではムスリムM田さんが半ば青ざめながら大量の資料と格闘し頭を抱えていた。
すると「Sさん!!加古川お願い出来ませんか!?」と訴えて来た。私は「どないしたん?」と詳細を聞いたところ、明日の告示日に唯一加古川選挙区のポスター部隊が決まっていないとの事だった。私は「何とか!やりますわ!!」と引き受けたのはいいが、何の段取りも聞いてもいないし、これまで何の準備もしてはいない。ほとんど拝まれるように(笑)地域の地図や掲示位置を示した資料と、ボランティアの方々の連絡先などを渡されたのだった。
ポスター部隊の説明会が開かれるわずか1時間程前の事だった。
早くから担当地域が決まっていて、色分けされた詳細な地図を吟味している方々を横目に、最後尾にぶら下がる私の焦りをお分かり頂けるだろうか?(苦笑)
ジェシーK埼さんやデジボの皆さんが口々に「大丈夫!!デジタルマップで行けますよ!!」と仰るが、元来アナログ人生の私には不安でしか無かった。しかもポスター云々の情報や段取りなどとは全く接していなかったので、ほんまオイラで大丈夫なん?との疑問符が浮かんでいた。
あれよあれよの中ポスター部隊の説明会が始まるも、聞き慣れないデジタル用語が飛び交い、なんだか浦島太郎気分だったが、デジボ隊長T中さんを中心に、長きに渡り「見えぬ所で、それぞれの大事なポジションにありながら地道に作り上げて下さっていたデジタルマップ」の使い方のレクチャーを受け、ポスターの割り当てを受け取った。
そして加古川ポスター部隊の方々へ電話確認と打ち合わせをさせて頂き、地図と住所一覧を前ににらめっこするのだった。
加古川部隊の方々の中には、東京!!北海道!!広島!!等からの義勇兵の方々がおられたのには衝撃を受けた。
これらの方々の「義心」を無駄にする事が無いよう3日間のポスター部隊のスケジュールを取りまとめ、効率よい段取りをホテルで考え組んで行った。
救いだったのは、私自身が「知らぬ土地」では無かった事だ。仕事でこれらの地域に何度も行っていた事と、友人も多く住む地域であった。よく飲みに行った店もある。若かりし頃は・・・な地域だったので、いわゆる「地の利」はあったのだ。
彼の地を思い浮かべながら段取りを考えていると、よこしまな欲望が頭から離れなくなっていた。
十数年前には、月に2~3度は通っていた東加古川駅近くにある中華料理屋の名物が、どうしようもなく、もうどうしようもないほどに食べたくて食べたくて仕方なくなっていた。
それほど美味い名物を、ポスター部隊に乗じて食べに行けたのも、兵庫の戦のお陰様である。
事務所裏の駐車場で出会った黒猫。