巷で喧しいパワーハラスメントに思う
端緒は誰やったっけ???と、すぐには思い出せないほど流行りのパワハラ騒動は、ヒルヒナカから「アホが見るワイドショー」などにかじりついているお茶の間では盛り上がりを見せているのだろうか?
どうでもいいが。。。(苦笑)
昨今炙り出されている「魑魅魍魎たる過去の遺物」たちの駆逐合戦は、それはある意味痛快であり、「ざまあみろ」的な「晒し者感」にあふれている。
漏れ聞きかじった程度ではあるが、往々にして「過去の栄光の上にあぐらをかいて来た人物」が長きに渡り「影響力を行使」して来たのだろう背景は共通している。
そりゃそうだろう。
どこにお呼ばれしても「オリンピアンのメダリスト」である。
食事はタダやしタニマチは自慢げに連れ回してくれる。人脈自慢の金持ちなどに呼ばれると、お車代にご祝儀を「ごっつあんです」てなもんである。
私自身助板に呼び出される超高級河豚料理店が阪神地域に看板も掲げず営業している。そのお店には、虎や兎や竜や鯉などの監督や選手。ジャニーズ尻掘りクラブのおっさんアイドルや見分けがつかないケツの穴アイドル??。前面道路に黒塗りの高級車が並びスーツ姿の若い衆が点々と立っている時は、新聞や週刊誌に名前が書かれているその筋の親分衆が集結している。
以前その店で出会った「メダリスト」は関西の超有名企業の社長と某親分にはさまれてごきげんで飲んでいた。その後新地へ移動して行ったが、さあいくら小遣いを貰ったのかは知らないが。
そんなもんである。皆「メダリスト」になった事で「ちやほやされ、担がれて」「勘違い」してしまうのだろう。
パワハラなどは「受け取った配下の人」が感じた時点である意味での「罪」は成立する。
したがって実際に顔を晒し発言する選手たちの告発はほぼ真実なのだろう。
問題なのはのらりくらりと逃げ口上と生き残り作戦を展開している老害どもであろう。
「神仏に誓って微塵もやましい事などありません」と言い切れる「偉人」ならばそもそもそんな告発など出てくる訳が無い。
多少の妬み嫉みなどがあっても「フェアさ」は周りが冷静に評価しているはずだ。
悲しいかなスポーツバカ(アホ!)の方々は「李下に冠瓜田に靴」など聞いた事も無いのだろう。
この「妖怪退治ブーム」は2020に向けての大掃除!としてはまあええんやないのとは思うが、一つ危惧していることがある。
昨今国民総携帯時代にあり、録音など常識!と言う若者たちが跋扈する時代にあって、教師も、医者も、指導者も上司なども毎日が戦々恐々でビクビクと生きているのが透けて見える。
ちょっと言葉を荒げただけで「パワハラ認定」されるのだから仕方があるまい。
しかし現場は違う。
先日現役高校教師の友人と飲んだが「そりゃ大変や・・・」と言っていた。
生徒がタバコを吸っていた現場を見つけて指導する時にも「怒鳴る!怒る!」姿を録画、録音しパワハラだと「恫喝」してくる生徒と「アホ親」が出現しているのだそうだ。
悪夢を見るような話だった。
「パワハラ」と言う「悪魔の印籠」をアホ共が手にしたのではないかと。
どの時代も「若気の至り」「青春時代のゆらぎ」などの上に「アホ」をすることは往々にしてある。さらに潜在的にアホな親に育てられた不幸な「アホ」も最近は増殖している。
かく言う私もアホで粗暴で世の中の歪に一人一向一揆を仕掛けて来た若造でありました。
手の付けようも無いアホには容赦なく鉄拳制裁が様々に降りかかってきた。まさに「自業自得」。
幼いころから祖父などから聞かされていた「支那朝鮮と大東亜戦争」について夏休みの感想文として提出したら、40人近く居たクラスメイトの前でボコボコにしばかれたのは日教組の担任だった。
地域では最も腕がいいと有名だった大工の棟梁についた時などは、アルミの脚立や電動工具、むき出しのノミが飛んで来たものだ。
そんな「粗暴な指導」に導かれて成長する者は、現代でも少なからずいる事は間違いない。
逆に言えば、「目先の楽さを過ごしながら、一生涯アホを過ごす」人間が量産されて行くのではないか?
小手先の世当り上手と、小器用な人間ばかりが「ドジョウのように」するすると生き抜けて行く時代になると言う事なのか?とも取れるのではないか。
暴力など無くなればいい!とは、薄っすら考えるが、コクサイカと言う玉虫色のような風潮に流されているようにも思う。
最近の事だが、応援に来てくれた「坊主!(見習いの若い衆)」を屋根の上で引きずり倒したことがあった。
このまま放っておいたら恐らく屋根から落下することが目に見えていたので緊急避難的に襟首をつかんで反対側の安全な屋根に戻した。(一般的には汚い罵声をあびせながら)
私も“立派”な「パワハラ」人間です。どうぞ断罪なりなんでもしてみろ!!
だれかカシコイヒト!!「愛のある罵声と鉄拳制裁」を「最先端の技術で判断するスマホ機能!」を開発してくれ。
愛ある罵声、愛の籠った軽い暴力を、私を含め様々な「現場」で封じられると、確実に「無辜の死」も増えるのだろうことは書いておきたいのだ。