ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画、『ブレードランナー 2049 』について考える…の2回目。(前回は、こちら)今回も、ネタバレがあると思うので、未見の方はご注意のほど…。
前回は、この映画には聖書の物語や設定が内包されていて、キリストに相当する人物がふたりいる、ということを書いた。ひとりは、レプリカント(人造人間)の開発と生産をタイレル社から継承した、ウォレス氏である。
この人物は、顔貌が正しく、一般的にイメージされるキリスト像そのもの。また、自身を生殺与奪の権を持った全能者だと考えているという、謂わば神になったつもりの人間である。
僕は、このウォレス氏を「黒」のキリストと定義した。この映画では、このように、キリストを「黒」と「白」の2種類に分けて、それぞれに相当する登場人物が現れる。
では、「白」のキリストは誰なのか、と言うと、それは今作の主人公のKであると思う。Kにキリストをオーバーラップさせたと見られる点は、幾つかある。
まずは、やはりその外見だ。ウォレス氏と同様に、面長にヒゲ面。但し、ウォレス氏ほどにはキリストに似せていない。そこは、やや中途半端にしてある。
僕の知り合いの米国人の牧師さんは、背が非常に高く、Kに似て、面長の顔にヒゲ面だった。実は、この種の顔貌は、牧師さんにはよくあることで、イエス・キリストを信奉する余りなのかどうなのか、そのイメージに似てきて(似せてきて)しまうのである。
Kの外見は、キリストそのものというよりも、そのような「キリストに似た者」になっている。ちなみに、この「キリストに似た者」というのは、キリスト教の信徒さんが目指すべき到達点としてよく使う(本来は内面的な意味で使う)言葉である。
あと、Kが右脇腹の生傷をマリエットという娼婦のレプリカントに見せるシーンがある。この右脇腹の傷は、十字架に架けられ死後復活したキリストが持っていた傷と全く同じ。これも、キリストとオーバーラップさせるための演出といえるだろう。
(マティアス・ストメル作 『聖トマスの懐疑』)
キリストが見せた脇腹の傷とは、上の絵画の様なものである。十字架で磔になっているときに刺されて出来たものだ。この磔刑の後に復活したキリストは、弟子の前に現れてこの傷を見せて触らせている。Kには弟子がいないので、代わりにマリエットに見せたのだろう。
そもそも、このマリエットという名前は、マリアの派生形である。新約聖書を読むと、キリストの周囲には、マリアという女性が何人かいたことが分かる。まず、母の名が、マリアだ。あと、マリアと名乗る娼婦(つまりマリエットと同じ職業)も、母のマリアとは別にいたのである。
また、その娼婦のマリアと同一人物であるかは詳らかではないけれども、キリストの死後、洞窟に作られた墓に駆けつけた女性の名もまた、マリアだったのだ。
尚、当初の設定でKは、この脇腹に傷が出来る原因となった戦闘で一旦死んだことになっていた、という趣旨の内容をドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は語っている。つまり、脇腹の傷を見せるこのシーンは、謂わばキリストの様に「復活後の」Kの姿なのである。
さて、このシーンの後、マリエットの紹介で、レジスタントの女性リーダーが登場する。偶々なのかどうなのか、このリーダー役の女優さんは、イスラエルのナザレ出身なのだ。
ナザレというのは、イエス・キリストの出身地でもある(ちなみに、生誕地はベツレヘム)。この様なキリストの復活を想起させるシーンに登場する役者さんの出身地がキリストのそれと同じというのは、単なる偶然なのか、何か意図したことなのか…?
…とまあ、この様に、ウォレス氏の場合とは別の手法を用いて、Kにもキリストをイメージさせる設定が幾つも施されているのだ。
Kはクライマックスで、白くしんしんと雪が降る中で事切れてしまう。きっと、監督は最終的に、Kに対して白のイメージを与えたかったのだろうと思う。そんなことも相俟って、Kは「白」の側のキリストであると僕は考えるのである。
さてさて、この様に、救世主(または神)の立場にある登場人物がふたり出て来て、物語の中では(間接的に)対決をすることになる。でも、このふたりは結局、この世を救う存在にはなり得ないというところが、この映画の大きなミソである。
つまり、「世の救い主」として、全く別の人物が用意されているのだ。それが、デッカードとレイチェルの間に出来た子供である。上で触れたレジスタンスの女性リーダーは、この子に将来、レプリカントの解放運動を指揮させようと発言している。
その発言を聞くまで、主人公のKは自分がデッカードとレイチェルの子供だと思い込んでいた。女性リーダーから、「自分だと思っていたの?」と言われて、愕然となるのだ。
このガクッとくる感じは、観ている人も全く同じだっただろう。僕も、このときガクッときたw こうして、この世界の救い主は誰か、という部分を二重底にしておいたのが、この映画のある種、懐の奥深さなのである。
さてさて、前作でも登場した、この映画のヒロインである、レイチェル(前作ではレーチェル、英語ではRachael)。一般的に、この人名の由来となったのは、旧約聖書に出てきたラケルという人物である。
ラケルは、英語で書くとRachel、つまり「レイチェル」という発音になる。『ブレードランナー2049』で、デッカードと対面したウォレス氏は、レイチェルの頭蓋骨を手に、次のような旧約聖書の一節を諳んじる。
And God remembered Rachel … heeded her and opened her womb.
これは、「創世記」の第30章22節からの引用である。この箇所は、日本語訳の聖書では以下の様に書かれている。(日本聖書協会の口語訳より引用)
次に神はラケルを心にとめられ、彼女の願いを聞き、その胎を開かれた…
旧約聖書でラケルは、長らく子供の産めない女性だった。そこで、神がラケルに奇跡を起こして産めるようにした、というわけなのである。
この一節をウォレス氏がデッカードの前で口にすると、ラケルの発音は「レイチェル」なので、そのままあのレイチェルとイメージが被ってくるのである。つまり、神の奇跡か何かでレイチェルも子供を産んだかのように錯覚してしまうのだ。
それこそが、自身を神の様に考えるウォレス氏の意図するところだろうと思う。自分にも、この旧約聖書の神のように胎を開くことが出来るのだろう、と。
ちなみに、ラケルは神に胎を開かれた後、子供をひとり産む。しかし、そのお産が重かったために、結局命を落とすのである。この点は、『ブレードランナー2049』のレイチェルも全く同じなのだ。非常によく出来ている設定だと思う。
(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの描いた、ラケルと妹のレア)
…とまあ、思いつくままに、時間と紙幅の許す限り綴ってみた。一言で言うならば、『ブレードランナー2049』は、多少の聖書知識があれば、色々と見えて更に楽しめる映画になるのだ、というわけなのである。
この他にもきっと、まだまだ様々な設定や謎が隠されているのかも知れない。『ブレードランナー2049』は、この様に前作に負けず劣らず実に奥深ーい作品なのだ。以上が、皆さんの鑑賞の一助となれば、これ幸いである…。
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