暑かった週日と、雨降りの週末と。それでも、育つ蟲がいた…

前回まで、全4回に渡って、「東海林修フェスティバル」について書いた。

カツブロでは、テキスト入力欄の下に、リアルタイムで字数が表示されるようになっているのだけれども、4つの回はいずれも書き終わってみると、2,000字をゆうに超えていたのだった。3,000字に達した回もある。
書いている最中も、勿論その数字は見えるので、嗚呼2,000字を超えた…とか、3,000字に行ってしまう…とか、意識をしながら書いている。それから、その回の話を折りたたむようにして、次回に持ち越しているのだ。

ブログの投稿で書こうと思っていることは、いつも事前にアタマの中にひと通り揃っている。但し、どの位の長さになるのかについては、書いてみないと僕は分からないのである。

作家で工学博士の森博嗣氏は、その辺りが実に凄い。小説を書く前から、この作品は○○万字の長さになる、とまず把握している。
そして、執筆中は、今日は全体の何%まで書き進めました、という具合に進捗の度合いまで掴んでいるのだ。ちなみに、物語のプロットは事前に作成せずに書き進めるらしい。

僕は、今回の「東海林修フェスティバル」の件で、合わせて約1万字は書いただろうと思う。ひとつの出来事に関して、これだけの長さの文章を書いたのは、多分生涯の中でも初めてだろう。やはり、そのくらいにインパクトがあったのだと思う。
東海林修先生と松本零士先生という、僕にとっては二大巨匠に、一遍にお会いし、かつ音楽もみっちりと聴いて来たのだから、尚更である。

しかし、それでもまだ、何か書き足りないような気がするのだから、書くという行為は実に不思議なものである…。何にせよ、お読み頂いた皆さまには、多謝深甚。どうも有難うございます。


(まだ載せていない写真があった。ステージ上の、東海林修先生である)

さて、今回のトップの写真は。これまでも何回か話題として触れて来た、アゲハチョウの幼虫だ。

もう10月も半ばになんなんとするのに、うちの側にある蜜柑の小木を見ると、真夏の頃と同様、いまだアゲハチョウの幼虫たちが大小様々に、葉の上で育っているのである。

先達ての或る日、小さな葉に、数日間じっと動かない茶色の幼虫がいた。この虫も、アゲハチョウのそれである。まだ小さいうちは、鳥のフンに擬態して、そんな色をしているらしい。

娘と一緒に観察しつつ、これ動かないけれども死んでいるのかねえ…等と言い合っていたら、次の朝に同じ葉を見てびっくり。写真のように、青虫へとすっかり脱皮していたのである。早速、iPad miniにマクロレンズを取り付けて撮った。
たった一晩での大きな変わり様に、自然の神秘のようなものを感じたのである。何日間もじっとしていたのは、脱皮のための準備か何かだったのだろうか?不思議なものだなあ…。

空を見上げて、星や月を観るのも、実に良いけれども、こうして地を這ったり、宙を舞う虫たちを観察するのもまた、何処か楽しい気がする。

そう言えば、音(音楽)もまた、宙を巡る何ものかである。ちなみに、僕はヘッドホンやイヤホンで音楽を鑑賞することは滅多にしない。専ら、スピーカーである。しかし、音楽を創るときには、逆にヘッドホンだけで作業を行う。スピーカーを使うのは、仕上げの確認のときくらいなのである。

これは、創るために聴くときと、単に鑑賞のために聴くときとでは、音の聴き方そのものが全く異なるからなのだ…ということは、遥か以前から認識している。聴覚の分解能を可変させている為だ、と言えばいいだろうか。創るときには、音の背後まで仔細に聴き込む必要があるのだ。

最近は、CDを聴くときにも、5.1chのサラウンドシステムを通して聴くことが多い。よって、ヘッドホン等を使って、音声出力を左右からだけ(2chのみ)に限定して音楽鑑賞をすることに対して、僕はむしろ不自由を感じる。
やはり音とは、本来もっと広がりを以って感じられるものである筈だからだ。例えば、自転車に乗りながらもイヤホンで音楽を聴いておられる人たちは、そのような不自由を何も感じていないのだろうか…と考えるのである。色々な意味において。

ちょっと長くなりそうなので、この辺りの話については、またの機会に…。

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先達て、図書館で、ちょっとこの雑誌を立ち読みした。映画音楽の特集で、興味があったのだ。最新号の雑誌は、次号発売まで貸出不可。これは季刊の雑誌なので、次号は3ヶ月後。とても待てない…。超久しぶりに、この雑誌、買うかなあ。

『Keyboard magazine 2017年AUTUMN 』
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