トップの写真は、週末の午後に撮影した空模様。この日は、こんな風に曇りがちだったのだ。
この写真を撮ったときに、偶々、雲と空の間の形が、馬の頭のように見えたので、ヨハネの黙示録のある一節を想起した。ヨハネの黙示録には、馬が幾つか出て来る箇所がある。
新約聖書のインターリニアとギリシア語の文法書を紐解き、その中で青白い馬が出てくる一節を私訳してみたのである。最近読んでいる、田川建三博士のものとは、また違った訳文が出来上がったと思う。
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καὶ εἶδον, καὶ ἰδοὺ ἵππος χλωρός, καὶ ὁ καθήμενος ἐπάνω αὐτοῦ ὄνομα αὐτῷ ὁ Θάνατος, καὶ ὁ ἅ|δης ἠκολούθει μετ’ αὐτοῦ: καὶ ἐδόθη αὐτοῖς ἐξουσία ἐπὶ τὸ τέταρτον τῆς γῆς, ἀποκτεῖναι ἐν ῥομφαίᾳ καὶ ἐν λιμῷ καὶ ἐν θανάτῳ καὶ ὑπὸ τῶν θηρίων τῆς γῆς.
「私は見ていた。見よ、青白い馬が。そして、その上に座る者が。彼の名はサナトス(死)であった。そして、ハデス(黄泉)が彼に続いていた。彼らには、地の4分の1に対する権威が与えられた。大剣と飢饉と死と地の獣たちによって殺すためである」(ヨハネの黙示録 6:8)
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一般的に、この「ヨハネの黙示録」は、終末の書などと考えられているけれども、田川建三博士の『新約聖書 訳と註』(第7巻)を読むと、書かれている内容は、主にローマ帝国の圧政に関するものであることが分かる。
上の一節も、当時のローマ帝国の暴虐さを象徴的に表現したものなのだ。「ヨハネの黙示録」は、キリスト教信徒の皆さんが有り難がる(?)ような、いつか将来にやって来る世の終わりを預言した文書ではないというわけである。
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さて、田川建三博士の最新刊、『新約聖書 本文の訳』について。
新約聖書学者の田川建三博士は、10年間かけて新約聖書の全訳(出来うる限りの直訳逐語訳)と詳細な註をものすることにずっと取り組んでおられた。それが昨年、全7巻で計8冊の『新約聖書 訳と註』として刊行が完了した。
『新約聖書 訳と註』シリーズに関しては、以前の投稿でも取り上げた。このシリーズについて詳しくは、そちらをご参照の程…(その投稿以外にも、田川建三博士については、このブログで何度も書いていますので、もしよろしければ、そちらの方も)。
さてさて、その『新約聖書 訳と註』全8冊各巻の訳文の部分が、今年に入って一冊に纏められたのである。題して、『新約聖書 本文の訳』。僕は最近、図書館で1ヶ月弱、順番を待ってやっと借りることが出来た。
上の写真が、その本である。この『新約聖書 本文の訳』は、判型が2種類あって、僕が図書館で借りたのは標準版(…と言ったら良いのだろうか?)の方だ。
つまり、今までの『新約聖書 訳と註』シリーズと同じサイズ。下は、試しにズラリと自室の棚に並べてみたところ。iPad miniに魚眼レンズを付けて撮影。
このシリーズの鏑矢となった『書物としての新約聖書』も加えると、結構壮観である。これで、田川建三博士の現在の新約聖書シリーズ全てが揃ったことになるのだろう。
『新約聖書 本文の訳』に話を戻そうと思う。田川建三博士の訳文は、キリスト教業界でよく使われている新約聖書の日本語訳と決して同じものではない。むしろ、それらへのアンチテーゼとして著されたと見るべきだと思う。
本書は、「はじめに」の冒頭から、実に田川節全開なのである。曰く、「新約聖書と呼ばれてきた書物は、本当はもちろん『聖書』ではない」なのだ。やはり、こう来たか!w
聖書は、有り難がって読むような教典の類ではなくて、数千年前から2000年弱ほど昔に書かれた古代文書群である、というのが、博士の基本的なスタンスなのである。
『新約聖書 訳と註』シリーズの訳文部分だけが何故、一冊に纏められたのかというと、シリーズ各巻は全ページの10分の1が訳文で、残りの9割が註(訳文に関する詳細な解説)で構成されているから、というのが理由のひとつだろうと思う。
これは、どういうことなのかと言うと、訳文を読みながら、註の部分も読もうとすると、ページを前に後ろに捲ることになり結構忙しくなってしまう。
そこで、もし本文だけ別冊になっていたら、下の写真のように左右に並べて読むことが出来て、実に好都合なのである。これは、かなり楽であるし、お陰で読書が捗るのだ。(左は『新約聖書 本文の訳』、右が『訳と註』当該の註の部分)
ちなみに、Amazonなどネット上のレビューを見ていると、この『新約聖書 本文の訳』の紙面に関して、「字が小さい」とか「2段組が読みにくい」などという書き込みが散見される。
しかし、少なくとも、僕が借りた標準版に関しては、上の写真でお分かりのように、『訳と註』の活字の大きさとさほど変わりがないようだ。あと、聖書というものは何であれ、そもそも2段組が普通なのであるw
実は、『新約聖書 訳と註』には、もうひとつの判型が存在する。『携帯版』である。こちらのお値段は、標準版の約半値。大きさは、文庫本くらいらしい。
僕は先日、試しにこの携帯版の方を注文してみた。『新約聖書 本文の訳』はいずれ買うつもりでいたけれども、図書館に標準版が置いてあるのならば、僕はもう片方を買えば良いと考えたのだ。
この携帯版の方が、どの程度の活字の大きさなのかは、気になるところである。くだんのレビューの中には、携帯版の字が余りにも小さくて驚いた、というものもあるからだ。
かたや、訳者の田川建三博士は、「私でも老眼鏡をかければ容易に読めます」と、ご自身のサイトでコメントしている。尚、博士は御歳80を超えておられるのだ。
さてさて、本書の読みどころについて。それは勿論、田川建三訳の「新約聖書 本文」そのものであるのだけれども、実はそれだけではない。
2種類に編集された「ヨハネの黙示録」の部分が実に秀逸なのだ。田川建三博士は、ギリシア語原文の詳細な分析から、「ヨハネの黙示録」が原著者と編集者Sとの2名の手による文章が混淆したものであると仮説している。
従って、『新約聖書 本文の訳』において「ヨハネの黙示録」は、本文の全訳と、原著者の書いた文章のみの訳の、2種類を敢えてページを割き、掲載しているのだ。
これは、『訳と註』の「ヨハネの黙示録」(第7巻)でも実現していなかった、日本初の試みである。ひょっとすると、世界初でもあるのだろう、とも思う。
(「ヨハネの黙示録」全訳ページ)
(同、原著者の書いた部分のみ抜粋のページ)
「ヨハネの黙示録」全編に渡って、ふたりの作者の文章が混淆していると具体的に指摘しているのは、田川建三博士が世界で初めてなのである。その点でも、本書は、実に貴重な一冊となっている。
他に読みどころは、田川博士にしては、かなり控え目で分量が少な目の、巻末の「解説」。それでも、20ページある。しかし、語学的な内容も含まれており、やはりこれも貴重だ。
やはり、新約聖書を読もうと思うのならば、何人たりとも多少はギリシア語を学んでおくべきなのかも知れない、と思う。世に「独自解釈」の翻訳聖書が、余りにも多く罷り通っているからである。
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下は、僕が注文した「携帯版」。標準版の版下をそのまま縮小して印刷したもののようです。よって、標準版の前書きにも、携帯版の読者に向けた文章が書かれています。一般的に聖書は、講壇用などの大型でない限り、2段組で小さな活字を使って印刷されているものです。さて、この携帯版は、どうでしょうか。文字の大きさは?読み易さは?今から到着が楽しみです。届き次第、このブログでレビューしたいと思います。(その投稿は、こちら…)
田川建三 訳『新約聖書 本文の訳 携帯版』
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