天才鬼才指揮者テオドール・クルレンツィスを、CDで一気にふたつ聴く。チャイコフスキーとマーラーの交響曲なのだ…

今週と来週の水曜日は、塾の仕事の方が休みになる。ちょっとした、忙中の閑というわけだ。そこで、この機会を利用して、交響曲のCDを一気に2枚じっくりと聴く、ということをやってみた。

正に、贅沢な時間の使い方だ。何がどう、贅沢なのか?ドラクエで有名な作曲家のすぎやまこういち先生は、「オーケストラは、音楽の一番のごちそうです」と仰っておられる。
そう、音楽の中の「一番のごちそう」である交響曲を聴く。しかも、ふたつ。その内のひとつはマーラーである。これだけで、1時間半近くもかかる。もうひとつは、チャイコフスキー。こちらは、45分くらい。

マーラーの方は、前回もお知らせした通り、「交響曲第6番『悲劇的』」のCDである。指揮は、テオドール・クルレンツィス、演奏は、彼の手兵であるムジカエテルナだ。
このCDの輸入盤は、先月の下旬に既に発売となっている。だから、日本のみならず、世界中の方たちがもう、聴いておられるのだろう、と思う。そして、日本国内盤の方は、本日発売。僕は、こちらを買った。

きのうの午後のことである。このブログの投稿文の作成中に、タワーレコードからCDが一足はやく届いたのだ。いつものようにお昼頃には届くと思っていたけれども、生憎の雨で、郵便の配達が若干遅れ気味だったようだ。箱の濡れ具合にその跡が見られる。悪天候の中、有難いことである…。

兼ねてからお待ちかねの、テオドール・クルレンツィス指揮の、マーラー「交響曲第6番『悲劇的』」の国内盤。
僕は、ライナーノーツの英文と日本語訳とを見比べてから、クルレンツィスの名言の部分を和訳し直すということを今回もやりたいと思っているので、輸入盤より少し待って国内盤の方を選んだのだ。今回のライナーノーツは、和英とも各4ページある。

(CDおもて面)

(CDうら面)

今回のCDは、デザインの基調が白である。前作の『悲愴』は、黒であった。トップの写真をご覧の通り、並べてみると、実に好対照。しかし、いずれも「第6番」で、表題には(日本語で)「悲」が付く。一応の共通点があるというわけだ。
きっと、クルレンツィスは、この両作品をワンセットとして、ある程度は意識しているのだろう、と感じる。かたや、一種メランコリックな作品として黒のイメージを与え、もうひとつはクルレンツィスが述べてように(後述)、その開放的でもある作風から白を基調としたのだと思う。


(ブックレットの曲目ページ)

きのう早速、ブログをしたためながら、一度だけ聴いた。これはもう、如何にもクルレンツィスらしい、ダイナミックで流麗な演奏。それでいて、独自の繊細さも併せ持っている。何とまあ幅の広いパフォーマンスなんでしょう…という感じだ。
音質も、非常に良い。サウンドは明らかに、前作の『悲愴』よりもクリアで、音圧なども増している。きっと、今作ではスタジオの、レコーディング用のみならずトラックダウン用も、機材がグレードアップしたのだろう。

クルレンツィスは、レコーディング後のスタジオワークに膨大な時間を掛けるらしい。少なくとも1年は費やすのだそうである。今作は、録音年月が2016年7月。やはり、ポストプロダクションに1年以上は掛けたのではなかろうか。

さて、本日は、上述のように、テオドール・クルレンツィスのCDで、チャイコフスキーとマーラーを聴いた。いずれもサラウンドシステムを介してである。加えて、チャイコフスキーの「交響曲第6番『悲愴』」は、図書館で借りたスコアを見ながら聴く。

上は、『悲愴』第1楽章の中盤、一旦シーンとなった後に、突如「ジャン!!」となる箇所である。この場面は、指揮者によっては、踏み込んだときの足音が入っているとか、腕を振ったときの衣擦れが聞こえるとか、何しろ力の入るところなのだ。
勿論、クルレンツィスも、このフォルテシモでは容赦をしないw しかし、ここからが凄いのだ。コントラバスの弦と弓が、ゴリゴリゴリゴリと擦れる音まで余すことなく収められている。所謂「松脂の飛ぶような音」とは言うけれども、それよりもリアルな摩擦音である。

上も、第1楽章。弦の駆け上がりだ。クルレンツィスは、こういった駆け上がりのクレッシェンドをとてもダイナミックに表現する。弱音と強音との差異を実に大きく取っているのだ。ひょっとすると、ミキシングで弄って強調しているのかも、とも想像する…。

上は、第3楽章の、フォルテシシモ(fff)で駆け上がったり駆け下りたり、という箇所。この『悲愴』は、第2楽章と第3楽章がまるで躁状態のような曲調で、聞きようによっては狂気でもある。
そして、鬱のどん底のような第4楽章へと雪崩れ込んで行くのだ。クルレンツィスは、特にこの第3楽章を狂わんばかりに激しく振った。ありったけの力で。きっと、チャイコフスキーも死を目前にして、正にそのような心境だったのだろう、と思わされる。

そして、死の第4楽章。僕の旧友が、このクルレンツィス指揮による『悲愴』を聴いて、「ラストはまるで死体を置き去りにしたかのような…」という感想を漏らしたというのは、以前も書いた通り。
その第4楽章で有名な、第1バイオリンと第2バイオリンが捩れるようにして主旋律を演奏する箇所が、上の写真。何故、チャイコフスキーがこのような書き方をしたのか、僕は寡聞にして知らない…。

上も、第4楽章。第1楽章と似た、弦の駆け上がり。但し、こちらは三連符だ。クルレンツィスは、つくづく『悲愴』のこういった上昇するパッセージの表現が上手い。実に流麗で力強く、聴いていて痺れてくる程である…。
僕は、この『悲愴』を今回、自室のサラウンドシステムで聴いた。全周から鳴り響く、テオドール・クルレンツィスとムジカエテルナの演奏を聴くのは、至福のときだ。そして、このままマーラーへとCDを替えたのである。

さて、このマーラーの「交響曲第6番『悲劇的』」は、クルレンツィスのライナーノーツもまた注目すべきポイントだ。前作『悲愴』のとき、僕は部分的に私訳を試み、このブログにも載せた
今回のライナーノーツでも、クルレンツィスはマーラーの文学的、哲学的な解釈を行い、しかもその上で聖書(旧約も新約も)からの文言を引用して、そのイメージをも巧みに利用している。流石、幅広い知的領域をお持ちなのだ。

では、全4ページあるライナーノーツの中から、4ページ目を3箇所ほど和訳してみようと思う。

“The Sixth Symphony is the first symphony that really anticipates the catastrophes the of the 20th century.”
「第6交響曲は、20世紀の大異変を真に予期している最初の交響曲なのである」

“… Mahler’s music does not present a dichotomy between consolation and hopelessness. It is the hopelessness that gives consolation. Mahler is for those who have been damaged. He says to us, ‘I too have been damaged. Here I am. You are not alone. I am with you. ‘…”
「マーラーの音楽は、慰めと絶望の間にある対立を提示しているのではない。絶望こそが、慰めを生み出す。マーラーは、傷つけられてきた人たちのためにいる。彼は私たちに言う。『私も傷つけられてきたのだ。私はここにいる。あなた方は、ひとりではない。私はあなた方と共にいる』」

“… After this symphony you don’t feel destroyed. You are even more alive than before. You are better than before …”
「この交響曲を聴いた後、あなたは自分が打ち壊されたと感じることはない。あなたは、以前より一層生き生きとして、気分が晴れ晴れとしているのだ」(以上、私訳)

特に、上の3つのうち、2番目の文章は、このあとクルレンツィスが「ある点においては、キリスト教的だ」(It is Christian, in a way.)と書いているように、短いながらも聖書の言葉を引用しているのだ。具体的には、旧約の「イザヤ書」や新約の「マタイによる福音書」等である。
残念ながら、国内盤CDのブックレットに掲載されている日本語訳では、この箇所が聖書からの引用であることを念頭に置かずに訳してしまっているようだ。訳文が、実に世俗的な表現に留まってしまっている。何とも、惜しいことである…。

さて、あともうひとつ、テオドール・クルレンツィスがSNSで書き置いていた、マーラーに関するコメントとその私訳(勿論、僕が訳した)を載せて、思いがけず長くなってしまった(4000字を超えました・苦笑)この投稿を締めくくりたいと思う…。

“With Mahler I was dreaming and it was like paradise for me to find another meaning of being with music.”
「マーラーと共に私は夢を見ていた。それは、音楽と共に生きることについて、もうひとつの意味を見つけるための、私にとっての楽園のようなものだったのだ」(私訳)

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前作『悲愴』は、このブログの右の欄外にも書いてあるように、『レコード芸術』誌の「2017年度 レコード・アカデミー賞」を受賞しました。さて、今作も晴れて受賞となりますかどうか、蓋し見ものといったところですね…。

Teodor Currentzis 「Mahler: Symphony No. 6」(Amazon Music Unlimited)
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