『async』の5.1chサラウンド鑑賞ルームで、僕は1時間15分を過ごした。『async』を丸一周+αくらい聴いて、濃密なサウンドに浸り溺れて、十分に堪能したのだ。でも、まだまだ聴いていたい気もした。それ程に居心地の良い音空間だったのである。
ここでは、坂本龍一こだわりの、ドイツメーカー製のスピーカー(口径は多分40~50cm)が使われていた。僕の自宅のものとは、恐らく10~20倍の値段の開きがあるだろうと思われるような、見るからに高価な製品だ。
フロア自体は小ぶりながら(美術館というよりは、画廊のような広さ)、まるで映画館のような音圧と音響だった。でも、それぞれの曲目における、各chへの音の割り振りなどは、僕には大いに参考になったように感じられた。ピアノや打楽器などの楽器音やナレーションの音声が、実に巧みに振り分けられていたのである。
4階でも、『async』を5.1chで体験することが出来る。こちらでは、11分のダイジェスト版。プロジェクターで映し出されたイメージ映像と共に鑑賞する。
このフロアのスピーカーも、2階と同じドイツのメーカー製なのだけれども、あちらよりはだいぶ小ぶり(口径15cmくらいか)。しかし、やはり高価なスピーカーなのだろうけれども、僕がサラウンドに使っているBOSEのスピーカーとサイズが近かったので、設置の仕方やサウンドのバランスなどを、僕はよく観察して行ったのである。
あとは、地下1階のショップで、『async』のLPレコードを試聴し、パンフレット代わりに(?)販売されている、会場限定インタビュー冊子『設置音楽』を買った。(上の写真の、白と茶色の表紙の本)
こうして、11時に入場してから、2階→3階→4階→地下1階と巡って、全行程で2時間15分。もう1周して行きたいくらいだった。でも、再入場は不可の入場券なので、次回(半年後くらいに都内の別の場所で開催されるらしい)にも期待しつつ帰ることにしたのである。
この『async』をサラウンドで聴くようになって以来、僕がいつも感じていることがある。それは、もしかすると、音楽を左右2chで聴く時代は、もう終わり(の始まり)を迎えつつあるのかも知れないということだ。
我々は身の周りの生活音を常に、前後左右上下と全ての方向から認識しながら聞いている。しかし、こと音楽に関しては、とたんに、昔だったらモノラル、現代であればステレオ、という具合に、1chか2chに限定して再生してしまう。勿論、作る側と聴く側の、設備や装置の事情であることは大きい。しかし、それは余りにも自然に反していることだ、と思う。人間には全周囲から無段階にものを聴く能力が本来的に備わっているのに、音楽はいつも左右の枠に押し込んで再生してしまっている、ということである。
『async』のテーマのひとつは、そのような様々な自然音や生活音(環境音や雑音と言い換えても良いだろう)と音楽との混淆であろう、と思う。…とすると、それら総合的な音の集合を、左右のみのステレオに限定せず、前後左右のサラウンドにして聴こうとするのは、実に理にかなっていると言える。
そういった意味において、今やもう音楽は、左右のステレオ出力に限定して聴く必要はなくなってきているのではないか、と感じるのだ。いやむしろ、サラウンドのみで聴くことを前提に音楽制作を行う、という時代が来ても良いのではないだろうか。(そういえば、昔、冨田勲氏などのLPで4chステレオというものが、一時期あったなあ…)
きっと、坂本龍一も『async』の制作中、そういったような、あらゆる音の混淆と無段階化ということを意識していたのではなかろうか、という気がするのだ。asyncという言葉を拡大解釈すると、そんな意味合いもまた、僕には見えてくる。
もしそうであれば、そのあたりの着想が、YMOの頃から常に時代を先取りしてきた如何にも教授らしい姿勢であり、実に慧眼だなあ、と30年以上のファンを自認する僕などは、そう感じて止まないのである。
追記:後日、『async』のLPレコードが届きました。それについては、こちら。
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これまでの坂本龍一の歴代のアルバムの中では、この1984年の作品を最高傑作に挙げる人が多かった。僕も、そのひとりなのだろう。そして、今回の『async』は、別の意味での「音楽図鑑」なのである。30年以上の時を経て、ひとりの天才的な音楽家は、かくも別次元の遥かな高みに至り、新たな最高傑作を産み出したのだ…。
坂本龍一『音楽図鑑 完璧盤』
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