トップの写真は、先日のきくらげである。
本当は、前回の投稿に載せようと思って撮ったのだけれども、中秋の名月やグレン・グールドのことで内容が纏まってしまったので、今回に回すことにした。
このきくらげの栽培については、先週の投稿で、一度経過を書いた。「原基形成」という、芽が出たような状態になったのである。
そのときから1週間弱が経過した。そのきくらげの芽は、徐々に大きくなってきている。上との比較のために、先週の写真を再掲載してみよう。
写真の中央付近に写っている、黒っぽい塊のようなものが、きくらげの芽である。それが成長してきているのが、見て取れると思う。でも、少々成長が遅いような気がしないでもない。
きくらげは収穫までに時間がかかるそうなので、こんなもんだろうか?まあ、何であれ、毎日育つのを楽しみに感じながら、霧吹きでせっせと水を遣っている。
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さて、今日は、いつもと趣向を変えて(?)、ギリシア語について書いてみたいと思う。…というか、新約聖書についてである。
新約聖書は、様々な人物の手によって書かれた27巻の書物で形成され、2000年近く昔の古いギリシア語で書かれている。ちなみに、各筆者直筆の原典(親筆書)というものは、もう存在していない。原典の写しは、ある。
加えて、其々の書物の筆者が誰であったかということは、多くの場合(何せ大昔のことなので)特定が困難になっている場合がある。
例えば、パウロが書いたとされる書簡(「ローマ人への手紙」や「ガラテヤ人への手紙」など)は、筆者がパウロということで結論づけられている。しかし、他の一例を挙げると、「ヨハネの福音書」の筆者とされる「ヨハネ」とは一体誰のことなのか、実はよく分かっていない。ヨハネは、当時非常によくある名前だったからだ。
一部の保守的で原理主義的なキリスト教信仰をお持ちの方々は、この「ヨハネ」を、イエス・キリストの十二弟子の一人である「ヨハネ」であると信じてやまない。その方が色々と都合が宜しいのは分からないでもないけれども、そうであると特定できる(学術的な意味での)根拠は特にないのである。
これは、「ヨハネの黙示録」でも同様だ。これまた保守的で原理主義的な信仰の皆さんの中には、「ヨハネの黙示録」の「ヨハネ」と、「ヨハネの福音書」の「ヨハネ」は、同一人物であると考えている方がおられる。でも、実際には違うのである。
つまり、「○○○の…」というように、筆者の名前が記されているかのようなタイトルが付いていたとしても、額面通りにはちょっと鵜呑みには出来ないのだ。別の誰かがその名を騙って記す、ということが当時はよく行われていたからである。
先程の、パウロの書簡に関しても、その中に「使徒パウロから」と記されていたとしても、実際にはパウロが書いたわけではなかったようだ、というものも存在する。そういったものを総称して、擬似パウロ書簡という。(「テモテへの手紙」など)
そんなわけで、新約聖書中の27巻というのは、その出どころから既に曖昧なことになっているのである。まあ、2000年近くも昔の書物なんだから、仕方がないね…。
加えて、写本の問題というものもあるのだけれども、話が広がりすぎるので、詳しくは別の機会に譲る。印刷技術のなかった時代には、修道士などの人々が代々、聖書のギリシア語本文を手書きでパピルスや羊皮紙に書き写していたのだ。それが写本。そして、その異同(写本ごとの差異)というものが、膨大に存在するということだけは書き置いておきたい。
(米国の英訳聖書)
聖書とは、人(特に、篤い信仰をお持ちの方々)によっては、人生を賭けていると言ってもいいくらいの重要な書物である筈なのだけれども、成立の過程が斯様にして結構あやふやなものなのである。
更にややこしいことに、それらに加えて、翻訳の問題もあるのだ。我々は、新約聖書を原語である、大昔のギリシア語のままでは読むことが出来ないからである。一応、聖書は、原語から直接翻訳するという建前になっている。つまり、重訳は禁止なのだ、本当は。
しかし、これは幾分形骸化していて、例えば日本語の聖書翻訳についても、当然のことながら、原語から行うことになる筈なのだけれども、実際には、英訳の聖書をチラチラ参照しているようなのである。
それは、その方々の教義の方向性に合わせた訳文にする必要があるからだ。キリスト教は、各教団教派に応じて、其々の教義を持っている。カトリックにはカトリックの、プロテスタントには、リベラル派と保守派の、大きく分けて2種類の教義があるのだ(…本当は、もっと細かく分かれている)。よって、日本語に限らず各言語において、聖書の翻訳は、其々の方面に応じた幾つかの種類が存在する。
つまり、各方面の教義という前提があって、それと矛盾しないように注意を払いながら、聖書の翻訳を行なっている、というのが実態なのである。日本の場合、キリスト教は欧米からの輸入宗教なので、特にプロテスタントの場合、米国の聖書を参照しながら和訳することが多かったようだ。
日本は、キリスト教徒の割合が、人口の1%弱であると言われている。だから、聖書に関するマーケットもかなり小さい。日本語の聖書翻訳は、上に書いたような色々な問題を抱えているように思われるのだけれども、実際には声を上げる人が殆どいなかったのである。
でも、ここ10~20年の間は、このブログでもよく名前を取り上げる、新約聖書学者の田川建三博士が、いくつかの著作や、『新約聖書 訳と註』シリーズで、日本語の聖書翻訳の問題点などについて、盛んに筆を揮っておられる。
博士は先頃、『新約聖書 訳と註』シリーズを無事完結されたのは、以前の投稿で書いた通り。そして、時あたかも、プロテスタントのリベラル派と保守派の其々の陣営が、新たな日本語訳の聖書を刊行すべく、目下翻訳作業中なのである。
嗚呼、すっかり長くなってしまった。それで、僕が今回書きたかったのは、『ヨハネの福音書』から、3章16節についてであった。殆ど全てのキリスト教徒が座右の聖句としておられるであろうという、有名な一節である。
(出典:「The Online Greek Bible」)
例えば、この一節の日本語訳について、僕自身の私訳も含めて考察してみたいと思っている。(つづく…)
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田川建三博士の、新約聖書に関する著作と言えば、何と言っても『新約聖書 訳と註』シリーズ全8冊。でも、まずは概要だけでも、ということであれば、この『書物としての新約聖書』だろうと思う。まあ、これ一冊でも700ページを超える大著だけれども、後半の写本や翻訳に関する章を読むだけでも、かなり有用だろうと思う。
田川建三 著『書物としての新約聖書』
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